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4. How Do I Become a Christian

4. どのようにすればクリスチャンになれるのか

キリスト教を初めて知る

 

私はキリスト教とは関係の無い家庭で育ったので、福音を信じて罪の赦しを受け取るまで無神論者でした。この転機は、20代の頃にイギリスからの旅行でアメリカに滞在していた時に起きました。アメリカでイエス・キリストにある本当の信者たちに出会い、彼らは私に分かるように救いの道を説明してくれました。私が10代の頃に探していたもの、他のものとは全く別のものをこれらの信者たちのうちにみました。彼らが神とお互いに対して、愛と献身の心を持っているのをみたのです。それが、神の臨在に出会った初めての経験でした。

 

もし誰かが「キリスト教とは何か?」とキリストに人生を捧げる前の私に尋ねたとしたら、キリスト教とは十戒を守る宗教だ、と答えたことでしょう。私はクリスチャンであることが何を意味するか知らず、福音の重要な部分を見落としていたのです。クリスチャンになることは私たちのふるまいに関することではなく、神が私たちのためにしてくださったことに関することです。少し複雑に聞こえるかもしれませんが、私たちが十分善行を積んでも達成できなかったことを、神が私たちのためにしてくださったのです。この短い学びを読み終えるまでに、皆さんが福音(良い知らせ)の物語をはっきりと理解できるようになることを願います。

 

この学びは、クリスチャンの家庭で育ったけれど、救いを確信していない人たちのためでもあります。ある人たちは、キリスト教を信仰しており、定期的に教会に通っているかもしれませんが、神の子どもであることや天国へ行くことができることへの確信がありません。クリスチャンであることが何を意味するのかを理解し、神との関係を堪能する手助けをしたいです。「イエスとは誰か?」や「なぜイエスは死なれたのか?」に関する学びを読まれましたか?もしまだでしたら、これらの学びを今回の学びを終えた後に読まれることをお勧めします。

 

クリスチャンになることは、人生の新しいスタートを切ることではなく、新たな人生、つまりいのちを受け取り、それを始めることです。イエス・キリストに永遠のいのちがあることを私たちが知るために、神は救いという贈り物を与えてくださいました。イエスはこの贈り物を、彼を受け入れる全ての人に与えるために2000年前に来てくださいました。神の赦しとイエスからの新しいいのちを受け取らなければ、私たちは神を知ることができません。ある行動基準を達成することによってクリスチャンになることはできないのです。イエスは、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネの福音書3章3節)」と言われました。私たちが悔い改め(悔い改めは心と生き方の変化を意味します)、主イエスを救い主として受け入れるとき、新しいいのちが私たちに与えられます。使徒パウロは次のように言いました。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第二コリント人への手紙5章17節)」。自分が何をしているか理解できるようになってきたときに、この学びの最後にある神の贈り物を受け取るための簡単な祈りを祈ることをお勧めします。しかし、祈る前に知っておくべきことがいくつかあります。まず、神は私たち一人ひとりを大いに愛しておられるということです。

 

神はあなたを愛し、あなたへの贈り物を用意しておられる

 

神は地上のすべての人に−−私たちがそれを受け取ると決めるのであれば−−贈り物を用意しておられます。贈り物は、獲得できるものではなく、贈与者の心に芽生えるものであり、私たちの一人ひとりの功績や行いに基づくものではありません。それは、恵みの贈り物です。「恵み」とは「本来受けるに値しなかった好意」を意味する言葉です。私たちは神の賜物に値するものではありませんが、主は私たちを愛しておられ、神の憐れみと恵みを私たちに与えたいと願っておられます。

 

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2章8〜9節)

 

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙3章5節)

 

罪の問題

 

しかし、私たちのうちには問題があります。私たちが認識し、理解するべき非常に重要な問題とは、罪の問題です。神は完全に聖なるお方ですが、私たちはそうではありません。私たちはみな、内なる道徳的な指針や良心だけでなく、神の道徳律を犯してきました。私たちの罪の性質は神と私たちを分け隔てたのです。それは神が聖なるお方だからです。「あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて(ハバクク書1章13節)」。もし私たちが主と共に住まいたいと願うなら、私たちを神との交わりから遠ざける罪の性質は取り去られる必要があるのです。もし罪の問題を理解したくないなら、神が与えて下さった救いの素晴らしさを理解することができません。

 

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(ローマ人への手紙3章23節)

 

むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59章2節)

 

罪とは何か?

 

英語の「罪(sin)」という言葉は、「達しない、及ばない、不十分」を意味するギリシャ語に由来します。新約聖書が書かれた当時のギリシャ語では、射手が矢を放ち続けるが、的まで届かない様子を表す言葉として使われていました。神が天国への条件として設定されたものは完全であることでした。

 

ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイの福音書5章48節)

 

私たち一人ひとりには問題があります。私たちの個人的な罪と、私たちの祖先であるアダムから受け継いだ罪深い性質のために、私たちのうちには完全性がないからです。私たちの罪深い性質は、私たちを創造主から切り離します。ここで難解なのは、不道徳な状態から抜け出すための、十分な善行を私たちは積むことができないということです。主に立ち返る前に、罪を赦していただくため自分の人生を良い行いで清めなければならないと誤解している人もいます。そのような人々は、神は彼らの罪ゆえに彼らを受け入れないと考えます。しかし、神はありのままのあなたを愛しています。確かに、あなたは決して十分に善くなることはできません。しかしながら、イエスと一緒に十字架に磔にされ、そこで悔い改めた強盗は、良い行いをする時間などありませんでしたが、へりくだってキリストに赦しを乞いました。そして、イエスは答えてくださいました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(ルカの福音書23章43節)」。天国へ入るための善行に関して、私たちは何も誇ることはできません(エペソ人への手紙2章9節)。

 

自分を自分で救うことはできない

 

どんなに私たちが善くなろうと努めても、私たちの先天的な性質には欠陥があります。私たちは進んで罪人となったのであって、人間の性質は罪を犯すことにあります。確かに、善い行いをすることもできますが、その善行でさえも神に受け入れられるものではないのです。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです(イザヤ書64章6節)」。もし私たちの義なる行いが清いものでないなら、聖なる神にとって私たちの罪深い行いは想像を絶するものでしょう。私たちが清い人生を生きようとする時でさえ、私たちの霊は神の御前に汚れており、どれほど努力するかに関わらず、私たちは自分自身を変えることはできないのです。

 

クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。(エレミヤ書13章23節)

 

人に罪を宣告する戒め

 

「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。(マタイの福音書22章36〜38節)

 

モーセの十戒である上記の命令をどのように守っていますか?あなたはその戒めを一生守ってきたと心から告白することができますか?神は私たちのうちを毒した事情が明らかにされるために十戒をお与えになりました。神の戒めに従おうとして道徳的な生活を送ろうとする人もいます。しかし、聖書は、神が律法を与えて、私たちがどれだけ完全さから「かけ離れているか」を示し、罪の代価を支払うことができる救い主の必要性を私たちに明らかにしています。罪に対する唯一の答えは、私たちが赦しを受け取るためにキリストの元へ帰ることです。

 

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(ガラテヤ人への手紙3章24〜25節)

 

個人的に罪を犯したことはありますか?

 

律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。(ヤコブの手紙2章10節)

 

個人的に何か間違ったことをしたことがありますか?すべてをご存知の神から何もなかったように、ベッドの下に過ちを隠すことはできません。私たちは自分の罪を告白するか、それを心に保つか選ばなければなりません。もし私たちがたった一つの罪を犯したなら、神の完全な天国への道は閉ざされるでしょう。次のような表現が適切かもしれません。「殺人者になるには何回殺人を犯す必要がありますか?」−− 答えは一回です。嘘つきになるには何回嘘をつく必要がありますか?繰り返しますが、答えは一回です。それでは、罪人になるにはどれだけの罪が必要ですか?もちろん、答えは一つです。

 

罪の罰

 

これまでの内容に意気消沈しないでください。なぜなら、良い知らせがあるからです。神が私たちのためにしてくださったすべてのことを感謝するために、罪には罰が伴うことを理解しなければなりません。罪の罰は死、つまりいのちの創造主である神からの分離です。この罰は単なる肉体的な死ではありません。アダムはエデンの園で禁じられた実を食べてもすぐには死にませんでした。罪の罰とは、人生の終わりに私たちが神から離れてしまうことです。

 

すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。(エゼキエル書18章4節)

 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)

 

私たちの罪に対する報酬とはどういう意味ですか?報酬はあなたが仕事の終わりに得るものです。それは私たちがその期間一生懸命働くに値するものです。同様に私たちの罪深い性質を喜ばせた代償として、私たちの罪は公正な報酬を支払います。つまり、地獄と呼ばれる場所で永遠に神からの分離です。上記の御言葉(ローマ人への手紙6章23節)に重要な言葉「しかし」があることを神に感謝します。神の賜物は永遠のいのちですが、私たちがキリストのもとに来て、私たちの身代わりに十字架でキリストが完成した働きを受け入れない限り、私たちは皆が立つであろう裁きの座の前で滅びます。

 

私たちはみな、・・・キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(第二コリント人への手紙5章10節)

 

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル人への手紙9章27節)

 

キリストが罪に対する答え

 

イエスは、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです(ヨハネの福音書10章10節)」と言われました。この声明は、キリストが私たちにいのちを与えるために来られたとしたら、キリストが来られる前、私たちは何を所有していたのかと問いかけます。真のいのち、つまり神のいのちは、罪の悔い改めと、主イエス・キリストのいのちの賜物に私たち自身が立ち返る時点でのみ私たちに与えられます。その時点以前では、私たちは背きと罪の中で迷って失われていた羊でした(エペソ人への手紙2章1、5節)。死と罪から抜け出す唯一の方法は、誰かが私たちの身代わりになり、私たちの反逆と罪の罰を受けることでした。

 

その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネの福音書1章29節)

 

それが、イエスがされたことです。神は、すべての罪を神のいけにえの小羊であるキリストの上に置かれました。キリストは受肉された神であったし、今もそうであられるので、キリストのいのちだけが、私たちを真の「家」に導くための、永遠の義の対価となり得たのでした。神だけが私たち全員の罪の代価を支払うことができたのです。それは私たちのいのちの代わりに神のいのちを求める前代未聞の取引であり、私たちの理解を超えて私たちに有利なものでした。

 

他の例に当てはめてみましょう。たとえば、もし私たちが蟻について考えるなら、何匹の蟻が一頭のヤギと同じ価値を持つのでしょうか?何百万、いや、おそらく何千万もの蟻でしょうか?地上に存在する全ての蟻の数が一頭のヤギに相当する価値を持つのでしょうか?さて、一頭のヤギは全ての蟻を総集した数以上の価値を持つとしましょう。たとえば、1人の人間に等しい価値を持つ羊の数は何頭でしょうか?神の目には、世界中の全ての羊を合わせても神の似姿に創造された1人の人間に値しません(創世記1章27節)。もう一歩先を考えて見ましょう。サタンに奴隷として囚われているすべての人々を買い取るために、どれほどの対価が必要でしょうか?全てを治められる主ご自身のみが、主の身代わりの死を受け入れる人々全てを救うに十分な価値を持っておられます。

 

私たちは、神のひとり子がそのいのちを私たちの死ぬべき不完全ないのちと引き換えた贖いの代価について論じています。ですから、キリストの死はあなたの全ての罪のために支払われたのです。人は誰も罪を取り去ることはできませんが、栄光なる主にはそれが可能であり、それをすでにしてくださったのです。神は迷っていた羊である私たち全ての罪を神のひとり子の上に置かれました。もし信仰によってキリストを受け入れるなら、私たちは尊いキリストの血潮の代価によって霊的に新しく生まれ変わるのです。私たちは今、羊のためにいのちを捨てる良い羊飼いのものとなったのです。イエスは、彼が彼の羊たちのためにいのちを捨てるために来たと語られました(ヨハネの福音書10章15節)。

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネの福音書14章6節)

 

・・・ナザレ人イエス・キリストの名によることです。・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4章12節)

 

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた(第一テモテへの手紙1章15節)

 

キリストが罪の罰を支払われた

 

なぜキリストがそのように残酷で暴力的な死に方をする必要があったか不思議に思ったことはありませんか?確かに、神はそのひとり子がもっと楽な死に方をするようにしむけることもお出来になりました。個人的な見解に基づく答えとして、それは暴力的な死のみが明らかにされるべき罪の姿を顕にするからだと考えます。ある説教者は、「もしイエスが床の上や事故、または病によって死んだとしたら、罪の酷さや恐ろしさの全てを明らかにすることはできただろうか?」と投げかけました。私たちが罪の罪深さを誤認していることは人生の悲劇の一つです。キリストに対する神の計画は、キリストの死を自らの死と重ねる信仰を持つ全ての人々の代わりに死ぬことでした。それによって、罪の罪深さを示し、正しい罰がくだされたのでした。神の人への愛ゆえに、神は「神の子」の「人の姿」、主イエスとして、私たちの身代わりとなり、私たちに恵みと栄光を与えるために来られました。この種の身代わりの法的正当性の例は、歴史にみることができます。

 

イギリスとフランスの間で戦争が起きていた間、フランスの男性たちは抽選によって軍に招集されていた。選ばれると、その人は戦場へ行かなければならなかった。ある時、当局の職員がある人を訪れて、彼の名前が出頭名簿にあると伝えた。しかし、彼は「その人は2年前に撃たれて殺された」と言い、戦争へ行くことを拒否した。当初、当局は彼の正気を疑ったが、彼はそれが事実であると主張した。彼は、軍事記録に彼の戦死が記録されていると主張したのだ。「そんなことあり得ないだろ!」と職員たちは言った。「お前は生きているじゃないか!」。その男は彼の名前が最初に出頭名簿に挙がった時、彼の親しい友人が「お前には家族が多いだろ。でも、俺はまだ結婚もしていないし、誰も俺に頼る人はいない。俺がお前の名前と住所で代わりに出頭するよ」と言ったことを話した。その結果を、確かにその軍事記録は示していたのだ。この極めて珍しい事件の審議は、当時フランス軍を率いていたナポレオン・ボナパルトに託され、国はその男性に対して招集をかける法的な権利を持たないと裁決した。その男性は自由と宣告された。彼は他人の死をその身に纏ったのだ。[1]

 

神の視点から見ると、キリストが死んだ時、キリストは、あなたの罪によって生じた、敵であるサタンからの法的要求からあなたを解放するために、身代わりとなって死んだのです。キリストはあなたの代わりに、そしてあなた自身として死にました。神はキリストを、あなたの代わりに戦争へ行って戦死した者のように見られます。そして、キリストが死んだ時、あなたも死んだと見なされました。

 

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、・・・定めに縛られているのですか。(コロサイ人への手紙2章20〜21節)

 

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。(コロサイ人への手紙3章1〜4節)

 

イエスは死と埋葬と復活を通して、私たちにイエスのいのちを与えるために来られました。私たちは肉体的な命を先祖であるアダムから受けましたが、キリストは神のいのちを与えるために来られ、そしてこのいのちは、私たちが心からキリストを信じ信頼する時に私たちに分け与えられるのです。信じる時、罪と罪悪感は洗い流され、神のいのちが、信仰によってキリストと繋がれている私たち一人ひとりに流れます。

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネの福音書3章14〜18節、強調は筆者による)

 

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。・・・あなたがたを神に導くためでした。(第一ペテロの手紙3章18節)

 

人なるキリストを受け入れることで救いの贈り物に預かる

 

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書1章12〜14節)

 

神は人々が信じる時、永遠のいのちという贈り物を与えられます。神は幼い子供がキリストを受け入れることができるほど、永遠のいのちの受け取りを簡単にされました。このいのちの贈り物は私たちの事実に関する知識によるものではありません。それは、キリストへの服従のうちに私たちの人生を手放す心の態度にかかっています。もし幼子のようにキリストを受け入れないなら、私たちは神の国に入ることができません。イエスは、「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません(マルコの福音書10章15節)」と語られました。

 

キリストを受け入れ、新しく生まれ変わることは、神から生まれることであり、教会へ通うことだけでは起きません。「血によってではなく(ヨハネの福音書1章13節)」とあるように、使徒ヨハネは、クリスチャン家庭に生まれることだけによって新生は起きないと言いました。ある人は、神に「孫」はいないと言いました。彼が言わんとしたことは、「人(訳によっては夫)の意志によってでもなく(ヨハネの福音書1章13節)」とあるように、両親がキリストを知っていたり、またクリスチャン家庭に嫁いだりすることによっては、天の御国に入ることはできないということです。あなたの配偶者がクリスチャンであることでは十分でないのです。キリストを受け入れることは、私たち一人ひとりが持っているものを全て手放し、自分たち自身をキリストの御手にゆだねることを要求されます。ヨハネは、キリストの名を信じた人々は神の子供となる特権を与えられると書き記しました(ヨハネの福音書1章12節)。

 

キリストを信じるとは何を意味するのか?

 

信じるという行為は、私たちのためであった十字架上でのキリストの働きを知的に認めるということだけではありません。それは私たちの信仰と信頼をキリストにのみ置くことです。ナイアガラの滝の片側から反対側へ行く綱渡りの例えがあります。1000フィート(約300メートル)の綱渡りを何度も往復した後、綱渡りをする男性は群衆の方を向いて、彼が群衆のうちの誰かを運びながら綱渡りできると「信じますか」と問いかけました。群集の多くは彼がそれをすることがという肯定の歓声で応えたあと、彼は群集の一人ひとりに彼の背中に乗るようにと勧めました。しかし、結局は誰一人として彼に背負われることはありませんでした。キリストを信じることは、私たちの信頼をキリストに置くことです。頭だけでの信仰が要求されているのではありません。それは私たちの人生に彼を受け入れ、その日からキリストに導いていただくことです。今日、私たちは幼子のようにキリストを受け入れることができますか?

 

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)

 

悔い改めが必要です

 

あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書13章5節)

 

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。(使徒の働き2章38節)

 

神は・・・すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。(使徒の働き17章30〜31節)

 

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(第二コリント人への手紙7章10節)

 

チャールズ・スポルジョンは、「罪と地獄は婚姻関係にあり、悔い改めが離縁を宣告する」と語りました。偽りの悔い改めをしないようにしてください。なぜなら、悔い改めているように見える多くの人が嵐の中で積荷を船外に投げ出し、凪になると捨てたものを再び望むからです。

 

悔い改めは神に対する思いと心を変えることです。この変化は、これまでの生き方の方向転換を要します。大切なことは、あなたの心を調べ、本当に聖書的な罪の悔い改めを行なったのかどうか考えることです。聖霊にあなたを清め、新しくしていただくようにお願いしましたか?あなたの人格や魂に染み付いた、あなた自身や周りの人の人生に痛みを起こすような習慣から本当に自由になりたいですか?

 

もし、私たちが本当に認識している全ての罪を悔い改めるなら、手放したり、変えたりするべきことや、委ねる必要があるものを神の御霊が示してくださいます。しかし、それだけではありません!聖霊は私たちを真理へと導くことに誠実であられます。神は贖いへの道しるべを与えられるだけではなく、目的地へ着くための手段も与えてくださいます。聖書にある悔い改めは、ある男性が彼自身の必要を悟って、その父親のもとへ戻った姿を描いています(ルカの福音書15章17〜20節)。

 

罪の告白

 

罪の告白について話す時、それは私たちが正しくないと認識している行いを、神の前にさらけ出すということです。「告白」、英語で「confession」とはもともと、「同じ言葉を言い表し」、自分の罪について神と同意することを意味します。ある行動をとった言い訳や、神に示されているある特定の罪はそれほど悪いことではないと、正当化を試みないでください。自分の罪を認め、赦しを求めてください。サタンはあなたにそれはそれほど悪いことではないだろうと囁きます。そのような考えに対抗し、自分自身を神の憐れみの前に投げ出してみてください。一人で神と向き合い、聖霊が気づかせてくださるある特定の罪の重荷を下ろすことは賢明です。どのようにしても、神はあなたについて全てをご存知であるので、主に何も隠すことはできません。

 

ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。(マタイの福音書10章32〜33節)

 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10章9〜10節)

 

救いの保証

 

数年前、ある若い女の子がある教会のメンバーに加わりたいと教会の長老たちを訪れました。初めに、彼女は次のように尋ねられました。「あなたは、自分が罪人であることに気付いたことはありますか?」この質問に彼女はためらわず、「はい」と答えました。二つ目の質問は、「お嬢さん、あなたはイエスを信じて、変わったと思いますか?」というものでした。「ええ、変わりました」とすぐに答えました。「では、どのような変化がありましたか?」という次の質問に対し、彼女は「このような風にです。悔い改める前、私は罪の後を追いかけていましたが、今は罪から逃げています」と話しました。この人格的な変化が新しく生まれるという体験の証拠であり、その人の態度や人生の目的に変化が起こります。

 

ここで、少し時間をとって、新しく生まれた人の証拠をいくつか見てみましょう。もしまだあなたがキリストを受け入れていないなら、これらの項目を自分に当てはめて確認する必要はありません。これらは、肉によってではなく、御霊によってなされた内面的変化の結果です。

 

  • あなたは本当に福音を信じていますか?それは、頭で理解しているということではなく、生活の中で神の価値観に生きることを心の信念としているということです。その生き方によって、あなたが本当に信じているのか、またはそうでないかが分かります。「あなたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか(マタイの福音書7章16節)。」とイエスは言われました。あなたの人生のうちに、御霊の実が育っているという証拠があるはずです(ガラテヤ人への手紙5章16〜25節)。
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  • 主イエスがあなたのために十字架で死なれたことに感謝し、主イエスを愛する心がありますか?
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  • 神のことばを知ることへの飢え渇きはありますか?「しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります」(第一ヨハネの手紙2章5節)。
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  • キリストの再臨を待ち望んでいますか?「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします」(第一ヨハネの手紙3章2〜3節;下線は筆者)。
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  • 罪を犯した時、自分に対して怒りを感じたり、失望したりしますか?キリストをあなたの人生の王座にお招きし、彼に全てを委ねるなら、罪を犯した時に御霊がその罪を悟らせてくれます。
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  • 神を愛する他の人々を愛していますか?他のクリスチャンたちと一緒にいることを楽しんでいますか?「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています」(第一ヨハネの手紙3章14節)。
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  • あなたの人生における御霊の働きに気づいていますか?そうであるなら、それは神のいのちがあなたのうちに働かれている証拠です。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります」(第一ヨハネの手紙4章13節)。
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父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネの福音書6章37〜40節)

 

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント人への手紙5章17節)

 

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)

 

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネの福音書5章24節)

 

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(第一ヨハネの手紙5章13節)

 

このような愛は人の思いを凌駕します。つまり、万物の神が私の身代わりに死なれた−−私の罪に対する罰を神が受けられた−−のです。英国のクリケット選手であり宣教師であるCT・スタッドはかつて、「イエス・キリストが神であり、私のために死んだとしたら、彼の犠牲はあまりにも大きすぎる」と述べました。キリストが私の罪のために死ぬ以外に方法がなかったなら、それは罪の罪深さと、私が神との交わりを持つために罪の罪悪感を捨て去ることの重要性を証明します。私たちは力の限りを尽くして自分の罪を過去に置き、すべてのことにおいて神に従うことを求めるべきです。

 

神の御言葉に対するあなたの応答はどのようなものですか?おそらく今日、あなたはキリストと彼が十字架上で完成された働きを信じ、信頼したいと願っているかもしれません。もしそうであるなら、下の簡単な祈りを是非祈ってみてください。

 

祈り:

 

天のお父さん、イエスが私にいのちを与えるために来られたことを心から信じます。今日、私はイエスとイエスが私のために十字架上で完成されたわざに信頼します。私はこれまでの人生で罪を犯し、間違ったことをしてきました。罪に背を向け、キリストに立ち返ります。罪から私を救うために、あなたのひとり子をこの地上に使わしてくださったことを感謝します。主イエスよ、私の人生に来てください。そして、私の罪を清めてください。今日、あなたを受け入れたいです。アーメン!(「その通りです」の意。)

 

もしこの祈りを捧げたのなら、この福音のメッセージに対するあなたのご感想を聴かせてください。下のメールアドレス宛にぜひご連絡ください。さらに主イエスについて学ぶためにも、下にあるウェブサイトをぜひ訪れてみてください。

 

キース・トーマス

 

Eメール:keiththomas@groupbiblestudy.com

 

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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。

 

[1] 1500 illustrations for Biblical Preaching. Edited by Michael P. Green. Printed by Baker Book House, page 360.