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6. God So Loved

6.神は実に愛された

結婚関係へと生まれ変わる

 

神ご自身が率先して天から地に手を差し伸べ、結婚関係のように人々が神と共に歩むように人々を召されました。創世記から黙示録まで(つまり聖書の最初から最後まで)、聖書は私たちに、人を本当に愛している創造主なる神の物語を語っています。その愛は、エデンの園で人が罪を犯した時から、人が神に立ち返れるように道まで備えてくださるほどのものでした。黙示録は、神の聖徒(クリスチャンのこと)が新たに神の霊によって生まれることによって、メシア(救世主)と結婚関係を持つことについて述べています。主に贖われた人々は「花嫁」として、そして「聖なる都」として天から降りて来る様子が描かれています。

 

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(ヨハネの黙示録21章2〜3節)

 

この教会を「キリストの花嫁」と例える表現が、使徒パウロにも採用されています。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから」(第二コリント人への手紙11章2節)神は身代わりの犠牲のみが、神との結婚関係を成立させることができると明らかにされました。旧約聖書では、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から自由になるために犠牲になった罪のない過越の子羊が描かれています(出エジプト12章3〜13節)。そして、エジプトを脱出した後、神はあることをイスラエルの民に明らかにされました。それは、犠牲の動物の血が流されることによって、民が罪から清められ、聖なる神に近づくことができることでした(出エジプト29章44〜45節)。

 

旧約聖書における罪のための犠牲の全ては、史上最も自己犠牲的な行動のひな型でした。最も聖なる神が人となり、私たちの罪が受けるべき死の刑罰を贖うために自ら愛を持ってご自分の命を差し出してくださったのです。私たちは傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって、サタンと罪の奴隷から買い戻されました(第一ペテロの手紙1章19節)。

 

最も愛なるお方が、史上最も偉大な愛の行為「十字架での死」を通して私たちの心を捉えるために来られました。それだけでも十分すぎるのですが、イエスはできるだけ多くの人が最も簡単にその愛を受け取れるようにすることによって、すべての中で最も大きな愛の行為を完成させました。これは完成した働きであり、この最高の贈り物をただ受け取ることが最も重要です。母の胎から自ら生まれることはできないように、私たちはただ信頼し、信じることしかできません。これは、ある晩にこっそり訪れたパリサイ人(当時のユダヤ教の律法の教師たち)ニコデモにイエスが説明されたことでした。イエスは「あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネの福音書3章7節)と強調しました。それでは続けて、神の賜物と、それが信仰によって神に応答する人々にどのように与えられるか説明するイエスとニコデモの会話を読んでみましょう。

 

まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネの福音書3章11〜15節)

 

福音の単純さ

 

以前の学び(ヨハネの福音書3章1〜10節)で、「どのようにして人は神の前に正しい者とされるか?」という人生の答えを求めるニコデモの話を読みました。イエスが人は新しく生まれなければならないと答えた時、ニコデモは次のように言いました。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」(ヨハネの福音書3章9節)。ニコデモはおそらく幼い頃から世の常識によって考えることを訓練されていました。主イエスは「新しく生まれる」という単純なアナロジーを用いました。私たちが肉にあって生まれたときに、自分の意思や力で生まれてきたわけではありません。同様に、霊的に新しく生まれるために私たちにできることは何もありません。この単純なアナロジーが使われず、もしイエスが天の霊的なことを話し始められたらニコデモはどう応答したでしょうか(12節)?この考え方は使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた内容と似ています。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(第一コリント人への手紙2章14節)

 

最高の教育を受け、イスラエルの教師としてパリサイ人たちを教える立場にあったニコデモが、イエスの教えを理解するのに苦労しているのです! それは、私たちが聖書を読み調べても、最終的に御言葉を真理として受け取らない人たちのことを思い出させます。ある人たちは、すべての訓練や教育を受けても、聖霊がその心を開かない限り、霊的なことを理解することができないのです。ニコデモの理解する心を開き、神がいかに単純な救いを与えられたかを示すために、主は彼の心をイスラエルの歴史に向けさせました。それは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、彼らの罪ゆえに燃える蛇が民に噛み付いて多くの者が死んだという事件がありました。その時、神が示された癒しの方法は木の棒に付けられた青銅の蛇を見上げることでした(民数記21章)。イエスは信仰について教えるために、この歴史的出来事を引用したのです(14節)。

 

イエスが引用された旧約聖書の民数記を読んでみましょう。ここから、何を学ぶことができるでしょうか。

 

彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。(民数記21章4〜9節)

 

問1)神に対して文句を言ったイスラエルの民に何が起きましたか?民が蛇によって苦しんだ時、神は癒されるために何をするように言いましたか?どのような点で、イエスがニコデモに教えられたことと似ているでしょうか?

 

聖書はその時多くのイスラエル人が死んだと言っています(6節)。モーセたちが生きているヘビを捕まえてそれを棒に釘付けにするように言われた描写がないのは興味深いことです。それは私たちが自分の罪のために死んでいることを表しているのかもしれません。神はヘビを殺すために剣を持って出かけるようには言いませんでした。モーセたちがヘビに対処できない場合に、その青銅の蛇が掲げられている棒の場所へ行くようにも要求しませんでした。物理的な要求はまったくありませんでした。また、神はヘビの咬傷を癒す薬を与えた訳でもありませんでした。モーセたちは他の人を助けに行く必要もなく、ただ癒されました。その癒しの源は、神のことばへの従順という単純な信仰でした。彼らに与えられた神の単純な掟に従うことを拒否したために、一体どれほどの人が死んだのでしょうか。救いの答えは目の前にありましたが、今日の私たちのように、彼らは神の掟が単純すぎるために見落としていたのかもしれません。

 

イスラエルの宿営の真ん中に置かれた、棒に付けられた青銅のヘビを見るという単純さを理解できなかったイスラエルの民もいたことでしょう。「棒にある青銅の蛇を見るだけで、一体どうやって癒されるのか」と言う人もいたかもしれません。ヘビは罪の象徴であり、青銅は裁きの象徴でした。(青銅は犠牲のいけにえの祭壇を作るために使用される金属でした)。実は、この単純さの内に美しい物語を見ることができます。罪は裁かれ、裁かれた罪の形を信仰の目で見る人は癒しを受けます。このアナロジーが典型的であり、使徒パウロがキリストについて「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(第二コリント人への手紙5章21節)と書いていることからも明確です。神はキリストが自ら裁きを受けることによって罪を裁かれました。ゆえに、キリストは十字架上で次のように叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコの福音書15章34節)。キリストが十字架にかけられたとき、私たちの罪は彼の上で裁かれました。キリストは私たちの身代わりとなった犠牲のいけにえ、贖いの子羊でした。私たちは、蛇(罪)の痛みを伴う咬み傷から癒されるために、信仰の目でキリストを仰がなければなりません。

 

神の道は私たちの道よりも高いです。神が救いへの道を悔い改めと十字架を仰ぎ見るという実に単純なものにされたのなら、なぜ私たちは神を信じ信頼しないのでしょうか?預言者イザヤは救いの単純さについて次のように述べています。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない」(イザヤ書45章22節)。この御言葉は英国の偉大な説教者チャールズ・スポルジョンの回心のきっかけとなりました。彼は1850年にイギリスのエセックス州コルチェスターの教会に向かう途中で吹雪に巻き込まれました。教会に行くことが難しくなり、途中で小さな礼拝堂に立ち寄りました。しかし、その礼拝堂の牧師も天候のため教会に来ることができませんでした。すると長老の一人が立ち上がり、今日はキリストの十字架を仰ぎ見ることだけが必要だと言い、イザヤ書45章22節から説教をしました。スポルジョンはその時の経験を次のように綴りました。「その日の説教者は、急な出来事のゆえに説教を準備していた訳ではなかったので、説教の内容はそれほど長いものではありませんでした。慌てていたのか、時々言葉に詰まることもありましたが、それは問題ではありませんでした。私はイザヤ書を読んだ瞬間、救いの道を見出したのです。説教者が他に何を話したかは覚えていません。あまり気になりませんでした。そして、私は救いの道であるキリストの十字架にとらわれました。自分がしなくてはならない多くのことを御言葉から学ぶのだろうと考えていましたが、「わたしを仰ぎ見よ!」という言葉を聞いたとき、それは何と力のある言葉だったことでしょう・・・。すると雲が消えていき、闇がなくなり、日の光が地を照らしました。私はその瞬間に立ち上がって、会衆の中で最も情熱的にキリストの尊い血潮と、キリストを仰ぎ見るという単純な信仰に感動しつつ主を賛美しました。ああ、誰かが以前このように言うのを聞いてはいましたが・・・『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます』。」

 

スポルジョンは長い間、救いを得ようと努めていましたが、ついにキリストの十字架を仰ぎ見るという単純な真理に気づかされたのです。16歳の時にその礼拝堂で彼は回心し、新しく生まれ変わりました。そして19歳になる頃には、非常に多くの会衆の前で説教をするようになったのです。(私はかつて、その礼拝堂の近所に住んでいたことがあります。)

 

十字架に架けられた救い主を見ることによって、実際どのように私の罪が贖われるのかを説明することはできませんが、私はその真理と神が私の人生を変えてくださった力を信じています。福音は「信じるすべての人に救いをもたらす神の力です(ローマ人への手紙1章16節)」。救いを受ける取る前に、全てを理解しようとはしないでください。幼子のように全てを神の御手に委ねてみてください!

 

神が救われる方法を簡単なものにした理由は、できるだけ多くの人々が神に立ち返り、救われるためです。聖書は次のように語っています。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロの手紙 3章9節)」神の動機とは愛と、私たちがいる場所に対する懸念の心です。神の目から見れば、私たちはサタンの奴隷市場におり、罪に縛られ、騙されています。神が唯一求めているのは、罪が裁かれた十字架を信仰の眼差しで見ることなのです。

 

問2)福音を信じるとは何を意味するのでしょうか?それは知性で事実を受け入れること、またはそれ以上のことなのでしょうか?心で信じることは何を意味すると思いますか?

 

信じるとは何か?

 

                                                  

ギリシャ語のPisteuō(「ピストゥーオ」と読む)は英語でbelieve(動詞で「信じる」の意)と訳されます。この言葉は、その対象が本当であることを信じ、そこに確信と自信を持つことを意味します。この概念を説明するために、ここで一つ例を挙げてみましょう。ある男の城に主イエスがやって来るのを想像してみてください。しかし、跳ね橋を上げて入り口を完全に閉じている状態です。この城は男の人生を表しています。「マンソウル城(英語で「男の魂の城」の意)」の胸壁の上には、主イエスの入場の許可を決める3人の門番たちがいます。そのうちの一人「良心」が最初に、他の2人に言います。「私たちは国の法を犯したので、反逆の罪に問われている」。次に「理性」は「彼を城に入れたら恩赦が与えられるという彼の申し出は、私たちがこれまでに望んでいた以上のものです。入場を許可するべきです」と言います。実は、3人目の門番だけが門を開く力を持っています。それは「意志」と呼ばれます。「意志」は他の2人から助言を受けますが、彼だけが跳ね橋のレバーを動かすことができるのです。神なるキリストは私たちに自由意志を与えてくださいました。キリストを信じて受け入れることは、福音を頭で受け入れるだけでなく、意志を伴う行為なのです。

 

人がキリストとその福音を知ったとき、魂の中でしばしば戦いが起こります。私たちの魂の敵は、跳ね橋を下ろさないように人を説得しようと試み、あらゆる疑問をささやきます。私たちだけが跳ね橋を下ろし、キリストが私たちの人生に入って、城を治めていただくことようにすることができます。「信じること」とは意志が伴う行為なのです。

 

理性と良心の証人がじっくりと考えた後、人は神がその言葉に忠実であると信じて、神とつながるために信仰の手を差し伸べます。キリストが彼らのために成し遂げたことのゆえに、人々が信仰によってキリストを信じるなら、彼らは新たに生まれ、霊的に生まれ変わります。キリストに人生を捧げると決心するなら、キリストは決して私たちを見離さず見捨てないと約束しています(ヘブライ人への手紙13章5節)。しかし、そのためには日々自分の十字架を負って、キリストに従うことを決心しなければなりません(ルカの福音書9章23節)。神の道を歩み続けるためには意志が必要です。この世では信仰の戦いがあるからです。

 

理性は激しい霊的な戦いの場であることをよく覚えておいてください。敵はあなたの思考の源はあなただけにあると信じさせたいのです。それは嘘です。代表的なイエスの「種蒔き人」の例え話によると、神の言葉は私たちの心に蒔かれます(ルカの福音書8章4〜15節)。敵は発芽する前に種を食べてしまう鳥にたとえられています。「毒麦」のたとえ話(マタイの福音書13章24〜26節)では、敵が肥沃な土壌に悪い種を蒔く描写があります。心は人間の内なるもの、精神、理性、意志、そして感情の中核です(第一テサロニケ人への手紙5章23節)。頭に浮かぶすべての考えがあなたの中に源泉があるわけではありません。考えることは、神、悪魔、そして私たち自身の考えという3つの異なるものから来ます。自分以外からの考えや自分自身の考えから信じて下す決定により、あなたの姿が形成されます。信じることは、あなたが持つすべてのものをキリストに委ねるという意識的な選択です。キリストの御元に来るとき、あなたはもはやあなた自身のものではありません。あなたはキリストの血潮という代価で買い取られたのです(第一コリント人への手紙6章20節)。

 

  1. 理性のうちで戦いを経験したことはありますか?話し合ってみてください。

 

信じる者は救われる

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3章16~17節)

 

ニコデモはこれらの言葉に衝撃を受けました。なぜなら、イエスが神はイスラエルを愛しているとは言わず、神は世を愛していると言われたからです。救われて神の御国に招かれているのはユダヤ人だけではなく、「信じるもの」にその恵が与えられるのです(16節)。当時、宗教的なユダヤ人はパリサイ人が守る律法に従わない者たちは呪われていると考えていました。「それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている」(ヨハネの福音書7章49節)とある通りです。全世界に与えられたこの救いはアブラハムへの初めの約束から始まった神のご計画でした。神はアブラハムに次のように約束されました。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12章3節)。神は初めから、イスラエルと全世界から召される神の民を計画されていたのです。神はいかなる国民、言語や民族をも神のご計画から締め出すことはありません。次にある通りです。「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち・・・」(ヨハネの黙示録7章9節)。この救いゆえに、私たちは福音をもたらしてくれたイスラエルに感謝することができます。私たちはイスラエルに霊的な負債があります(ローマ人への手紙15章26〜27節)。

 

ヨハネの福音書3章16節は、神の自己犠牲的な愛について語っています。ギリシャ語のAgapaō(「アガパオ」と読む)は英語のLove(愛)と訳されます。それは愛し、大切にし、尊敬することを意味します。慈善、献身、尊敬、忠誠心、そして関心を持つことです。宗教文学以外で使用されることはめったになく、愛情や憐れみを意味するヘブライ語の「ヘセド」を翻訳するために最も一般的に使用されます。「アガペー」とは、自己犠牲的な愛、つまり、自発的な愛、または人の意志による選択や決定を表す言葉です。神は(過去形で)とても「愛された」ので、私たちがまだ罪の中にあり、神に反抗的な者であった時でさえ、神は私たちを救うために御子を世に遣わされました。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます(ローマ人への手紙5章8節)」。御言葉は続けて、神はそのひとり子を与えられたほどに愛されたと言っています。この愛は与え続けるような愛です。神が与えられた理由とは、誰も滅びることがなく、すべての人が悔い改めることを望んでいるからです。もし神の愛を疑う誘惑に駆られたなら、キリストの十字架を見て、罪に対する神の裁きに目を向けてください。そして同時に、罪人に対する神の愛にも思いを向けていただきたいのです。

 

神は、とても簡単に受け取ることができる最高の贈り物を与えられ、信じるすべての人にとってこの贈り物が有効になるようにされました。神はこれを実に単純化されたので、救いに関しての知識が少しでもあれば、子供でさえも救いを受け取ることができるのです。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません(ルカの福音書18章17節)」。子供たちはここでいくつかのことを教えてくれます。それは、彼らはただ両親の言うことを信じ信頼しているだけであることです。私の息子が幼く、まだほとんど歩けなかったころ、私がトーストを焼いている間に、息子を高い椅子に座らせていました。その高さから落ちることなど恐れず、床を見下ろすことさえせず、息子はその上で立ちあがり、私の腕に飛び込んできました。息子は何かあれば私が彼を助けると知っていました。父親の腕の中に飛び込む前に、全てを理解したがるのは私たちがもう少し成長してからのことです。

 

神は私たちをとても愛しておられたので、一人息子を与えました。人が神と和解する別の方法があったとしたら、神はそれを受け入れたと思いませんか?法と規則を守り、善良であることが和解に繋がったのなら、神はイエスをそのような苦しい死に追いやることはなかったでしょう。神は与えたほどに愛されていました。「ほどに」という言葉が強調のために使われています。神はただ愛しただけではありません。神は私たちをとても愛されたので、その息子が悪人の手によって残酷に殺されるのを耐え忍びました。

 

私たちの身代わりとなったキリスト

 

誰がイエスを十字架につけたのでしょうか?確かに、イエスに鞭を振るった人や「磔にしろ!」と叫んだ人も、イエスの赦しを受けない限り裁かれます。しかし、キリストを十字架にかけたのは私たち全員の罪でした。救い主がいなければ、私たちは「滅びる」ことになります(ヨハネの福音書3章16節)。私たちはすでにさばかれており、まだ聖霊によって新生していない人々は、サタンに捕らえられている囚人と同じです。しかし、救われる方法が一つだけありました。それは、神の御子が来て、彼に目を向ける人々の身代金を支払うことでした。神とあなたの間にある罪の障壁は、あなたの身代わりになられた神の御子イエス・キリストによって取り払われたのです。

 

この犠牲的な愛を説明するために、あるストーリーを紹介したいと思います。

 

アーネスト・ゴードンは、彼の著書「クワイ河収容所の奇跡」の中で、第二次世界大戦中にビルマ鉄道で働いていた捕虜たちの実話を描いています。その日の作業が終わるたびに、作業道具は回収されていました。しかし、ある日、日本人の監視員が「シャベルがなくなった!」と叫び、誰が盗んだのか調べるように要求しました。彼は怒り狂い始め、怒りに身を任せ、盗んだ者は前に出るように命じました。誰も動きませんでした。「全員死ね!死ね!」と彼は叫び、引き金に手をかけてライフルを囚人たちに向けました。その瞬間、一人の男性が前に出て、黙って注意を引きつける間、監視員はライフルで彼を殴り殺してしまいました。捕虜たちがキャンプに戻って道具の数を再確認したところ、シャベルの数は一つも欠けていませんでした。その日本兵は数え間違えていたのです。その男性は他の人を救うために、身代わりとして自ら前に出たのでした。

 

神は世をご自身と和解させるために、人としてこの世に来られました。神は私たちをとても愛しておられたので、私たちのためにご自身をお与えになりました。神が私を愛しておられると初めて聞いた時、それは非常に衝撃的でした!なぜ誰も私に教えてくれなかったのでしょう!真理を求めて世界中を彷徨っていましたし、故郷でこのことを教えてくれた人は誰もいませんでした。私は5歳の時に母を亡くしました。家族の中で「愛している」という言葉は聞いたことがありませんでした。自分の能力などではなく、ありのままの自分を愛してもらえることに憧れていました。最後の1ピースをはめるまで完成しないジグソーパズルのように、私の人生には何かが欠けていました。しかし、イエス・キリストに出会ったとき、神の愛に心が砕かれ、溶かされました。その出会いの後、グレイハウンドのバスでフロリダに行き、ハンナ・ハーナードの著書Hind’s Feet on Hight Places(英語で「ハインド、高きところへ」の意)を読んだことを覚えています。そして、神が私をご自身に引き寄せられた方法をさらに知ったとき、たくさんの涙を流しました。私がマリファナを摂取しすぎて泣き叫んだ時にも、神は私を見捨てることはありませんでした。

 

約5年間、私はこの真理を求めて霊的な探求を続けてきました。そして、この真理を聞いて、神が私を愛しておられることを知ったとき、新しく生まれ変わりました。神が私のような者を愛されることに驚きを隠せませんでした。私自身、特別な人間ではありませんでしたし、今もそうではありません。しかし、神は私を愛しておられ、あなたのことも愛しておられます。あなたの過去に関係なく、神はあなたを愛しているのです。神の前に歩み寄ってください。神の愛を体験してください!神のいのちが私たちを新たにし、満たすために、生まれ変わる必要があります。そのために、花婿なるイエスは来て愛を示してくださいました。イエスを信じる者は誰でも救われるのです(ヨハネの福音書3章16節)。

 

  1. 永遠のいのちはどのようなもので、いつ始まるのでしょうか?

 

永遠のいのちは、私たちが今過ごしている人生を超えたものです。それは全く新しい次元の人生です。神が意図された人生、すなわちキリスト中心の人生であり、神の愛により霊によって導かれる人生です。キリストを受け入れるとき、私たちは赦され、十字架上のキリストの完成した働きによって、正しい者として神とともに生きます。この条件に何も付け加えることはできませんし、これを獲得することもできません。ただ神からの贈り物として受け取ることができるのです。この人生は、心からキリストを人生にお招きし、悔い改めること(心と人生の方向を変えること)から始まります。そして、永遠のいのちをいただくことを死ぬまで待つ必要はありません。それは私たちが霊的に新たに生まれた時から始まります。

 

信じない者はすでに裁かれている

 

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。(ヨハネの福音書3章18〜21節)

 

この御言葉にとても考えさせられます。イエスは彼以外に救いの道はないと語っているからです。私たちの身代わりになったキリストの死に関する聖書の証言を信じなければ、私たちは滅んでしまいます。イエスは、信じない人、つまりキリストに信頼しない人はすでに裁かれていると言われました。この世には、サタンの王国と神の王国の2つしかありません。イエスは「わたしに味方しない者はわたしに敵対(マタイの福音書12章30節」していると言われました。御霊によって新生することを通して神のものとされていないなら、まだサタンの王国にいるのです(コロサイ人への手紙1章13節)。 「しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る(ヨハネの福音書3章21節)」というイエスの言葉でこの箇所は終わっています。御言葉を聞いて、直ぐな心で神を敬う人生を送りたいと願う人は誰でも、光なる神のもとに来ることができると私は考えます。しかし、悪を行う者は光を憎み、その行いが悪であるために光の方に来ることができません(20節)。あなたはどちらを選びますか?

 

光の方に行きたい、神と共に永遠に生きたいと願われる方は、この祈りを祈ってみてはどうでしょうか?

 

天のお父さん、あなたの子どもとして、日々あなたに従い、心から信頼することを選べるように助けてください。あなたが私に最善を備えてくださっていることを信じます。私の創造主、贖い主であるあなたを見上げます。そして、あなたを信じます。アーメン!

 

キース・トーマスより翻案

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  Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

 

 

本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。