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3. You Must Be Born Again!

3. 新しく生まれ変わりなさい!

クリスチャンの多くは、「あなたは新しく生まれなければならない」(ヨハネの福音書3章7節)という聖書の言葉をよく知っています。特に欧米においては、あるクリスチャンたちへの明確な呼びかけであり、聖書でよく知られている言葉です。したがって、「新生」という用語をキリスト教の特定の分野に関連付けさせるのは簡単です。しかし、この興味深い言葉を述べたのはイエスであったという事実を見失わないでほしいのです。さらに重要なことに、「あなたは新しく生まれなければならない」という言葉は、最も重要な質問に対するイエスの答えでした。その質問は一言で言えば、「どうすれば永遠の命を得ることができますか?」」というものでした。この質問とその答えの中に、福音のメッセージの核心があります。

 

当時、一般の人の多くはイエス一行の後をついて行きました。彼らは失うものがほとんどなかったので、イエスについて行くことは何ら難しいことではありませんでした。その一方、当時の宗教的な地位にあったユダヤ人たちは、イエスのことを慎重に捉えました。おそらく、彼らはイエスの教えに興味をそそられてはいましたが、彼らの地位のためにイエスとの距離を保ちました。イエスに従うこと、またはイエスの教えを承認することは、彼らの評価を危険にさらすことを意味し、異端者、奇術者、あるいは宗教的狂信者と組んだ者として見なされる恐れがありました。これらが、当時の確立されていた宗教的ユダヤ議会のイエスの見方でした。イエスは物議を醸す人物でしたが、今日でもそうです。ヨハネの福音書第3章では、当時の議会で高い地位にいたニコデモという人がイエスを訪れた時のことが記録されています。

 

パリサイ人ニコデモ

 

さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。(ヨハネの福音書3章1〜12節)

 

使徒ヨハネはキリストを紹介する多くの言葉を残してくれました。例えば、キリストはこの世の初めに神とともにいたということ。バプテスマのヨハネによって洗礼を受け、そしてご自身のもとに人々を召したということ。ヨハネの福音書第3章にて、使徒ヨハネは今日、イエスによる教えの一番初めで、最も重要な説教、すなわち、新しく生まれる必要性について語っています。イエスその教えの初めから、私たちが自分の行いによっては、神と永遠に生きることは決してできないと明確にされています。これが、キリストが「新しく生まれる」というアナロジー(「類推」未知の物事を既知の物事に当てはめて推論すること)を用いる理由です。それは私たち自身の力や能力によって達成できるものではありません。私たち全員が肉体をもってこの世に生まれたことに関して反論する人などいないでしょう。私たち一人一人は、両親と神のご計画によってこの世に生まれました。そして、神ご自身が、人が新しく生まれ変わるための働きを始められ、神の贖いの計画を通して神に立ち返る道を備えてくれました。私たちができないことを、神はひとり子であるイエスを通して成し遂げてくださったのです。

 

ニコデモとイエスの面会はエルサレムで持たれたと推測できます。前の箇所で、イエスは過越の祭り(ユダヤ教の祭り)のためにエルサレムを訪れていたと記されており、そこで多くの人がイエスの行われた奇跡を見て、イエスを信じていました(ヨハネの福音書2章23節)。イエスご自身がエルサレムの会堂や宮でいつも教えていたと述べたので(ヨハネの福音書18章20節)、ニコデモがイエスのしるしと奇跡を見ていたと仮定することもできます。

 

この聖書箇所には、ニコデモについて次の3つのことが言及されています。

 

  1. 彼はパリサイ人でした。パリサイ人とは「分離された者」を意味します(ヨハネ3章1節)。パリサイ人は、律法学者と教師たちによって解釈された律法(旧約聖書の一部)をその細部まで完璧に遵守する6000人ほどの非常に宗教的なグループでした。パリサイ人にとって、聖書の初めの5つの書簡に記されているモーセが定めた戒めを守るだけでは十分ではありませんでした。彼らは、それぞれの戒めを具体的に定義し、規則にしたのです。たとえば、彼らは安息日(一週間の7日目の日で、休まなければならない日と旧約聖書で定められている)に働かないことの意味を明確にすることを望みました。安息日に散歩に行っても良いか?それは仕事と見なされるか?どこまで散歩に行けるか?散歩の時に物を運ぶことはできるのか?律法学者はイスラエル人が守るべき律法と規則​​を説明し、定義するために63編から成るタルムードを書きました。律法学者によって定められた安息日の移動距離は2000キュビト(914.4メートル)でしたが、通りの端をロープで結ぶと、道路全体が1つの家と見なされ、その先を超えてさらに2000キュビット行くことができました。安息日に関する律法がどれほど細かく厳格なものになったのかが分かります。

 

  1. ニコデモはパリサイ人であっただけでなく、ユダヤの最高議会サンヘドリンを構成する70人の議員の一人でした。サンへドリンはユダヤの最高議会であり、世界中の全てのユダヤ人に対する権威を持っていました。

 

  1. ニコデモはイスラエルの教師である、とイエスは言いました(ヨハネ3章10節)。イエスは彼がパリサイ人であり、律法を守っている人であることを知っていました。この聖書箇所には、ニコデモがユダヤで最高の教師であったことを示すギリシャ語の定冠詞があります。おそらく、彼のもとにはパリサイ人としてよしと見なされるための守るべき多くの細かい規則に関する質問をしに来る律法学者たちが多くいたことでしょう。

 

問1)なぜニコデモのような人が夜にイエスのもとを訪れたのでしょう(ヨハネ3章2節)?ニコデモは学者でしたが、彼はイエスに答えを求めていました。この霊的探求は一体何によって引き起こされたのでしょうか?

 

なぜ夜に訪れたのでしょうか?おそらく、日中はイエスのもとに叫び求めて来る群衆にイエスが気を配っていたのを見たからでしょう。または、イエスが他のことに気を取られていなかったとき、彼と価値ある時間を持とうとしたのかもしれません。ニコデモのような人は、日中は多くの責任を負い、自分の魂の疑問に対する答えを探求する時間がほとんどなかった可能性もあります。日中の仕事を終えてからイエスを探したのかもしれません。3つ目の可能性は、ニコデモが他の支配的なユダヤの長老たちからの反対や嘲笑を望まなかったということです。夜に訪れることで、イエスが神殿の宮で教えているのを見ていたユダヤの議員たちの目を避けたのかもしれません。

 

ニコデモは、サンヘドリンの大祭司や他の人々のイエスに対する嫉妬と憎しみを知っていました。後に、ニコデモはイエスを捕らえようとした他のパリサイ人たちがいる中、ユダヤ人評議会の前でイエスを擁護しようとしましたが、イエスを軽蔑していた他の人々は彼を怒鳴りました。

 

彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」(ヨハネの福音書7章50〜52節)

 

私たちの敵であるサタンは、信仰を大胆に語ることを億劫にさせます。この世で働く悪霊は、キリストを信じる人々の影響力を弱めようとします(エペソ人への手紙2章2節)。悲しいことに、私たちがキリストへの信仰を隠すとき、私たちの魂は貧しくなります。聖書は、正しい人は若獅子のように頼もしいと言っています(箴言28章1節)。信仰を持っていない人々の中でキリストのために立ち上がる時、大胆でありたいものです。

 

ニコデモが夜に来た理由が何であれ、彼の心の中で何かが起きていたことは明らかです。彼は答えがイエスのうちにあると確信を持っていました。ニコデモはイエスを尋ねた理由を述べることはできませんでしたが、神がイエスと共におられるのを見て、イエスは神から遣わされたことを確信していました(ヨハネ3章2節)。しかし、それでも彼自身が受け入れているのではなく、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」(ヨハネ3章2節)とあるように、個人的なものにしようとはしませんでした。

 

キリストとニコデモ自身の霊的破綻への直感的知識が、内なる証人が、もしくは増大する自覚がニコデモにはあったのです。そして、キリストに興味を持った初めの段階にはいましたが、まだキリストを受け入れてはいませんでした。「イエスとは何者だったのか」という問いは、特にキリストが神殿に来て、両替商とささげ物を売る者たちを追い出した後(ヨハネの福音書2章)人々の間で熱く議論されたことでしょう。確かに、ニコデモが目にした奇跡は、ニコデモがキリストの本質を見極める助けとなりました。ニコデモが成してきた業績について、彼は神の御前に正しい者であるという内なる声を聞くことができませんでした。そして、何が欠けているのかを知るためにキリストのもとに来ました。ローマの教会に手紙を書いた使徒パウロは、クリスチャンであるすべての人がキリストに属していることを教えてくれる声、内なる証人−「御霊」を受けていると語っています。

 

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。ローマ人への手紙8章15〜17節)

 

問2)御霊を受け入れることは何を意味すると思いますか?

 

人間には不可能な救い

 

議員、教師、パリサイ人として、ニコデモは全世界が羨むような「義」を持っていましたが、何かが欠けていました。彼はまだ十分ではなかったのです!そこで、イエスは律法を守り行うことにまさるものが必要であると語られました。

 

私はあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義[どちらもニコデモに当てはまります]にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。(マタイの福音書5章20節[文中の挿入語句は補足したものです]

 

主はニコデモの心にある疑問をご存知でした。イエスは彼に次のように言いました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネの福音書3章3節)。「新しく」と訳された原語のギリシャ語「アノテン」には二つの異なる意味があります。一つ目は、二度目という意の「新たに」。そして、二つ目は「上から」という意味で、「上から生まれる」とも読むことができます。神の国を見る前に、神が私たちに働きかけられる必要があることを意味します。これら両方の意味が正しいです。イエスの言葉はニコデモに衝撃を与えました。宗教的なユダヤ人たちは、彼らがアブラハムの子孫で、また律法を守っているので、彼ら全員が神の国に入ることができると考えていたからです。彼らは外側を取り繕っていましたが、その内側は偽善に満ちていました。

 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。(マタイの福音書23章27節)

 

すべての人の内面には、転嫁(ある人の霊的状態になすりつけられた正義、正しくないのに正しいとする傾向)の性質があるはずです。内面の変化がなければ、私たちの人生は変わりません。変化は内側から始まる必要があり、私たちはこの変化、つまり「新たに生まれる」ために十分ではありません。変わるための力が必要です!人間の内面、心は正される必要があります。神学的な用語で、それは「新生」と呼ばれます。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」(テトスへの手紙3章5節)クリスチャンになることは人生の新たなスタートを切ることではありません。それは、始まる新たないのちを受け取ることです。作家のJ・シドロー・バクスターは、次のように述べています。「 新生は泉で、聖化は川のようなものです」(「聖化」とは、御霊の働きによって人が罪から救われ、神の聖性にあずかり、聖なるものとされること。)

 

イエスの言葉はニコデモにとって挑戦的なものでした。ユダヤ人は、人が裕福であるのは天の国に入ることができるサインであると信じていました。しかし、イエスは弟子たちに金持ちが天の国に入ることは難しいと教えました。そのキリストの言葉は彼らにとって衝撃的なものでした。

 

そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」(マタイの福音書19章23〜26節)

 

ある人々は、針の穴が非常に小さい都への門を示しているので、「荷物」を積んだラクダと入るには門から入る前にその荷を下ろさなければならないと教えます。しかし、この一節は文字通りに解釈されるべきだと思います。ラクダを針の穴に通すことができないのと同じように、金持ちであろうと貧乏人であろうと、誰もが永遠の神の国に入ることは不可能だとイエスは言われていると思います。「生まれ変わった」、または「上から生まれた」。人生のただ中において、神による新生がなければ、神の国に入ることは不可能です。この真理を知ることは非常に重要であるため、キリストはこの箇所だけでも3回、「まことに、まことに、あなたに言います」(3、5、11節)と述べています。これは彼の言葉の重要性を意図しています。

 

常に客観的に人生を見つめてきた人にとって、霊的に生まれる必要を考えることは容易でないでしょう。ニコデモがそのような話を初めて聞いたとき、ほとんどの人がするような反応を示しました。文字通りに受け取っていたので、この言葉を理解する論理的な方法がなく、彼は困惑しました。その言葉を額面通りに受け取った場合、新たに生まれるために母親の子宮に入らなければならないことを意味しました。

 

イエスはニコデモに、神から霊的ないのちをいただく以外には、神の国を見ることはできないと言われました。主イエスはニコデモ、そして私たちのために、このことを明確に話されました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれたものは肉です。御霊によって生まれたものは霊です。」(ヨハネの福音書3章5〜6節)肉によって生まれたものは肉ですが、霊的な神の国に入るためには、あなたの死んでいる霊が神のいのちという贈り物を受け取る必要があります。英語訳では、新しく生まれなければ「ある」人々ではなく、「全て」の人々が神の国に入ることができないと強調しています。クリスチャンのような生活を送ることによっては、本当のクリスチャンになることはできません。誰しも自らの力でこの世に生まれてきたのではないように、自分の力で霊的に生まれることはできないのです。救いは神からの贈り物です(エペソ人への手紙2章8節)。イエスは「水と御霊」によって生まれなければならないと言われました。

 

水と御霊によって生まれる

 

キリストのもとに来て、永遠のいのちを受け取らない限り、死の問題はいまだに私たちを支配しています。最初の人間アダムがエデンの園で神の命令に逆らって禁じられた木の実を食べた時、彼は死ぬはずでした(創世記2章17節)。しかし、アダムは彼が930歳になるまで肉体的には生き続けました(創世記5章5節)。しかしながら、死はアダムが罪を犯した日から彼を支配するだけでなく、神との関係に大きな影響を及ぼしました。このことは、アダムが罪を犯した後、神から身を隠した描写から伺うことができます(創世記3章8節)。神から離れていることは霊的に死んでいる状態であり、この世にあって私たちに希望はありません(エペソ人への手紙2章12節)。イエスは神と私たちの関係を回復するために来られました。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(ヨハネの福音書10章10節)とイエスは言われました。イエスがこの新しいいのちを与えるために来てくださったとするなら、私たちが以前持っていたものは不十分であることを示唆します。

 

使徒パウロもエペソ人に宛てて書いた手紙で、同じ内容について綴っています。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり・・・ 」(エペソ人への手紙2章1節、5節)。イエスのもとに来て、罪を悔い改め、人生にキリストをお招きするとき、新しく生まれるのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネの福音書1章12節)。イエスを受け入れた人々の霊にはいのちが注がれます。神との間にある仕切りは取り除かれ、神との交わりが回復します。私たちを神から引き離した罪の問題は、キリストに信頼を置くときに取り除かれるのです。

 

問3)イエスが「新しく生まれる」ことに言及した意味とは何でしょうか?

 

以下の4つの解釈が挙げられます。

 

  1. 本文中の「水」は肉体的な誕生に言及しています。生命が誕生して最初の9ヶ月間、その生命は母親の子宮の羊膜中にある液体の中にいます。この考え方に固執する人々は、イエスは肉体的・霊的な誕生が必要であると語っていると信じています。しかし、これは非常に文字通りの解釈であり、多くの学者がこの見解を持っているわけではありません。

  2. 「水」は「神のことば」の象徴であるという解釈です。聖書の中で、キリストはみことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり・・・」と言われています(エペソ人への手紙5章26節)。また、別の場所でイエスは次のように語られました。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです」(ヨハネの福音書15章3節)。この解釈によるとイエスは、神の御霊は罪を悟らせ、私たちを聖なるものとするために神がなされたことを教えるために、神のことばを用いると言っています。ここで「水」とは、神のことばに従って生きることによって、私たちの道を清めることができる「神のことば」の力を象徴しています(詩篇119章9節)。

  3. 「水」は御霊による「清め」と「新生」の働きを意味し、それは人がキリストに立ち返る時に起こります。「しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊(御霊と同義)による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました」(テトスへの手紙3章4〜5節)。

  4. 「水」は特定の「悔い改め」を意味します。ある人々は、イエスが洗礼を受けることを意図したと信じていますが、洗礼は心の変化を表す外面的な表現です。すべての違いを生むのは、内部で起こることです。イエスとニコデモが出会った当時、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマについて教えていました(マルコの福音書1章4節、使徒の働き19章4節)。水に浸かることは悔い改め(心を変えること)、過去の自分に死に、救い主と御霊の到来を待ち望んでいると表現することでした。「悔い改め」は、決して人気のある言葉ではありません。キリストを信じるだけでよいと教える人もいますが、キリストのメッセージとは、人々が悔い改めて信じない限り、滅んでしまうということでした(ルカの福音書13章3〜5節)。biblegateway.com(様々な聖書訳を閲覧できるサイト)で調べたところ、聖書の中に「悔い改め」という言葉が75回出てくることを知りました。悔い改めは軽視されるべきではなく、必ず強調されるべき重要なトピックであることを示しているのではないでしょうか。

 

私は4つの解釈すべてが可能だと信じているので、それらのいずれについても独断的であってはならないと考えます。また、これらのような解釈を読むと、神の言葉に何層もの真理があることを知ります。重要なことは、自分の心を調べ、罪に関して本当に聖書的な悔い改めをしたかを考えることです。あなたは清められ、新しいものとされるために聖霊を求めましたか?あなたは本当に、あなたの人格と魂を傷つけ、あなたの人生や周りの人たちに痛みを与える習慣から解放されたいですか?すべての罪を本当に悔い改めたなら、神の御霊は私たちが手放す必要のあるもの、諦めたり変えたりする必要のあるものを明らかにします。しかし、それだけではありません!聖霊は真理を明らかにするだけでなく、私たちを真理に導いてくださいます。神は贖いへの指針だけでなく、私たちを目的地に導くための手段も与えてくださいます。必要なのは霊的な目覚め、誕生です。それは、私たちの義の働きを通してではなく、神のことばと霊を通して神からのいのちが与えられて起こります。この聖書箇所に見られるのは、自分の本当の必要に目が開かれ、霊的に生まれことを求める人の姿です。

 

問4)水と御霊によって生まれたことを、どのように知ることができるのでしょう。皆さんはどう思われますか?本当に救われ、新しく生まれたとしたら、その証拠は何でしょう。

 

数年前、ある若い女の子がある教会のメンバーに加わりたいと教会の長老たちを訪れました。初めに、彼女は次のように尋ねられました。「あなたはかつて、自分が罪人であることに気付きましたか?」この質問に彼女はためらわず、「はい」と答えました。二つ目の質問は、「お嬢さん、あなたはイエスを信じて、変わったと思いますか?」というものでした。「ええ、変わりました」とすぐに答えました。「では、どのような変化がありましたか?」という次の質問に対し、彼女は「それは次のようなことです。悔い改める前、私は罪の後を追いかけていましたが、今は罪から逃げています」と話しました。この人格的な変化が新しく生まれた経験をした証拠であり、その人の態度や人生の目的に変化が起こります。

 

ここで、少し時間をとって、新しく生まれた人の証拠をいくつか見てみましょう。もしまだあなたがキリストを受け入れていないなら、これらの項目を自分に当てはめてチェックする必要はありません。これらは、肉によってではなく、御霊によってなされた内面的変化の結果です。

 

  1. あなたは本当に福音を信じていますか?それは、頭で理解しているということではなく、生活の中で神の価値観に生きることを心の信念としていることです。その生き方によって、あなたが本当に信じているのか、またはそうでないかが分かります。「あなたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか(マタイの福音書7章16節)。」とイエスは言われました。あなたの人生のうちに、御霊の実があるはずです(ガラテヤ人への手紙5章16〜25節)。

  2. 主イエスがあなたのために十字架で死なれたことに感謝し、主イエスを愛する心がありますか?

  3. 神のことばを知ることへの飢え渇きはありますか?「しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります」(第一ヨハネの手紙2章5節)。

  4. キリストの再臨を待ち望んでいますか?「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします」(第一ヨハネの手紙3章2〜3節;下線は筆者が施したもの)。

  5. 罪を犯した時、自分に対して怒りを感じたり、失望したりしますか?キリストをあなたの人生の王座にお招きし、彼に全てを委ねるなら、罪を犯した時に御霊がその罪を悟らせてくれます。

  6. 神を愛する他の人々を愛していますか?他のクリスチャンたちと一緒にいることを楽しんでいますか?「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています」(第一ヨハネの手紙3章14節)。

  7. あなたの人生における御霊の働きに気づいていますか?そうであるなら、それは神のいのちがあなたのうちに働かれている証拠です。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります」(第一ヨハネの手紙4章13節)。

 

筆者の霊的飢え渇き

 

私は5年間にわたり、5つの大陸と様々な国を訪れた後、キリストと出会いました。実は、私はかつて臨死体験をしたことがあります。その体験を通して、死は人生の終わりではなく、始まりの入り口に過ぎないことに気づいたのです。その時、私の魂は実際に体を離れ、天井から自分の姿を見ました。そして、死と生の間を行き来しながら「神」に叫びました。まだ神を知らなかった自分にとって、その状況こそ「神」に助けを求めるべき瞬間でした! 私は「神」に向かって、「あなたが私の命を助け、生かしてくださるなら、私の命を捧げ、あなたが望むことを何でもします」と叫びました。神様は私の祈りを聞かれ、気づくと自分の体に戻ってきました。その時から、目に見えない誰かに導かれているように感じましたが、神が一体誰であるのかは分かりませんでした!私にキリストの福音を教えてくれる人が誰もいなかったので、とりあえず、ヒンドゥー教と仏教を試してみました。しかし、それらは私の内なる神への飢え渇きを満足させることがなかったので、哲学やオカルトなど、他のいくつかの奇妙な分野を研究し続けました。

 

ついには真理への探求に疲れ果て、それらが全て無益であることを知った時、この時代に成就されている預言に関するハル・リンゼイの著書「地球最後の日」に出会ったのです。その本を読み、神がこの世で働かれており、私たちを放って置かれないことを悟らされました。そして、神の自分に対する愛を知り、さらにはキリストの再臨について知るため、数週間後には飛行機でアメリカ西海岸へ向かいました。主は機内で、私があるクリスチャンの隣の席になるように計らってくださいました。そのクリスチャンの男性は、聖書預言について学ぶためにヴァージニア州でのクリスチャン・サマー・キャンプへ一緒に行こうと誘ってくれましたが、入国審査の時に離れ離れになってしまいました。検査官は様々な国を訪れた私のパスポートを見て、質問をするために私を引き止めたのです。入国審査をようやく終え、長距離バスに乗り、神の導きを信じてヴァージニア州のリッチモンドに到着しました。

 

その2日後、リッチモンドから20マイル(約32キロ)ほど離れたキャンプ場へ向かうためにバス停で切符を購入しました。そして、驚くことに、バスに乗る乗客の列の中に機内で会った男性を見つけたのです!ちょうど同じ日に、彼は近くの町でレンタルカーを返してリッチモンドからバスに乗ることにしていたのです。私たちは同じバスでキャンプへ向かい、そこで私は初めて福音を聞くことになりました。そして、私は神の御霊の力強さに触れられ、キリストを受け入れました。

 

キリストを人生にお迎えし、新しく生まれ変わった時、それまで背負っていた重荷が離れていくのを体験しました。それからずっと私の心は神の愛に震えていました。少しでもイエスについて考えるだけで、涙を流して泣いたのです。愛されることを切望し、疲れ、傷ついた罪人の自分が、ありのままで愛されていることは信じがたいことでした。二度と忘れることはない体験でした。キリストを受け入れ、新しく生まれ、私は本当に変えられました!喜びがありました!神に愛されていることを感じ、以前はなかったような他の人を愛する心が与えられました。そして、神の御言葉に対する情熱、他のクリスチャンたちへの愛、まだ神を知らない人々に神の愛を伝えたいという思いが与えられました。私の魂は今日も満たされています。

 

全ての人の人生はユニークです。私の人生は急変しました。なぜなら、かつて私はずっと神から遠く離れて生きており、絶望していたからです。どのような理由で真理の探求に至るかが重要なのではなく、全ての人がある時に人生の岐路に立たされます。そこは、私たちの人生について吟味し、今いる場所、成し遂げたことや人生の意味について思いを巡らす場所です。「これが人生の全てなのだろうか?この人生は何のためにあるのだろう?」とあなたは考えているかもしれません。もしそうであるなら、あなたはまさに岐路に立っているのです!そこでぜひキリストを見出してください。彼はあなたを待っています。

 

ニコデモはキリストと出会い、彼を信じました。それから二年後、イエスが十字架にかけられ、ニコデモがキリストの墓でアリマタヤのヨセフと共にいたことがヨハネの福音書に記録されています。「以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と乳香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。」(ヨハネの福音書19章39〜40節)

 

親愛なる読者の皆さんはどうでしょうか?内なる証人の御霊が内在されることや、あなたが新しく生まれたこと、神の子どもであることに関して心に完全な確信はありますか?もしかすると、ニコデモのように、何か飢え渇きを感じていませんか?神の御霊によって新しく生まれ、神との平安なる関係を楽しむために、罪を悔い改め、キリストをあなたの人生にお招きし、これからあなたの人生を導いていただく必要があります。この祈りを祈ってみてはどうでしょうか。

 

天のお父さん、あなたが私を愛しておられ、私の人生に計画を持っておられることを信じて、今あなたの御前に来ました。天のお父さんから私を引き離していた私の罪の代価を支払うために、ひとり子イエス様をこの世に送ってくださった愛に感謝します。罪を悔い改め、あなたに立ち返ります。キリストに私の人生をお委ねし、私の人生にお招きします。天のお父さん、永遠のいのちをありがとうございます。アーメン(「その通りです」の意)!

 

キース・トーマス

ウェブサイト: www.groupbiblestudy.com

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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。