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2. Why Did Jesus Die?

2. なぜイエスは死なれたのか?

 

 

首にギロチンのアクセサリーを身につけている友人や親戚がいる人はいますか?または電気椅子のデザインなど?何の冗談を言っているのだ、と思うかもしれません。しかし、西洋では、首に十字架のアクセサリーを身につけている人を見かけることはどれほどあるでしょうか?私たちは人々が十字架のアクセサリーを身につけている姿を見慣れているので、それほど深く考えませんが、十字架は実際、ギロチンや電気椅子と同じように処刑の道具でした。なぜ十字架を身に着けるのでしょうか?十字架は、これまでに発明された最も残酷な処刑方法の一つでした。道徳や倫理などなかったような当時のローマ人でさえ非人道的すぎると考え、西暦337年に十字架刑を廃止しました。十字架は常にキリスト教の信仰の象徴と見なされており、新約聖書にある福音書の大部分はイエスの死に関するものです。そして、新約聖書の残りの部分の多くは十字架上で起きたことを説明しています。

 

使徒パウロがコリントに行ったとき、彼は「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(第一コリント人への手紙2章2節)と言いました。ウィンストン・チャーチル、ロナルド・レーガン、マハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キングの人生について考えるとき、彼らの行いが社会に与えた影響を思い起こします。しかし一方で、新約聖書を読むとき、私たちはイエスの生涯よりもイエスの死について多くを学びます。イエスは他の誰よりも世界史の様相を変えましたが、彼の生涯ではなく、彼の死について一般的によく知られています。なぜイエスの死に重点が置かれるのでしょうか?イエスの死と、ダイアナ妃やある殉教者、または戦争下での英雄などの死との違いは何でしょう?なぜ彼は死なれたのでしょうか?彼の死は何を達成したのでしょう?新約聖書がイエスは私たちの罪のために死なれたと語るとき、それは何を意味しているのでしょうか?これらの疑問は、今日の学びで答えたい事柄の一部です。

 

問題

 

私は若い頃、イエスが私たちのためにしてくださったことを伝える機会を期待して、個人的に人々に彼らの神との関係について尋ねることが多くありました。彼らは大抵の場合、彼らがキリストを必要とせず、人生は満たされていて、完璧で幸せであると言います。「私は良い人生を送ろうとしていますし、私が死ぬときには、その良い人生の故に大丈夫だろうと思うのです。」と彼らは言います。しかし、それが暗に意味するのは、救い主を必要としていないということです。救われる必要があるという自覚がないのです。彼らは聖なる神の前にある自分の罪と反抗心を自覚していないので、救い主イエスへの感謝と愛はありません。しかしながら、私たち全員に問題があるのです。

 

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(ローマ人への手紙3章23節)

 

皆さんはどうか分かりませんが、「私が間違っていました。お詫びします。」と自分の非を認めて謝ることは容易ではありません。私は人をすぐに非難し、自分の間違いを認めるのに遅い傾向があります。妻は、私が若い頃、漁師として長年海に出ていたので、鋭い方向感覚を持っていることを知っています。太陽の動きを見て方角を判断し、船を操縦するのですが、時々私は混乱し、西に向かっていると思ったときに実際は北に向かっていることに気づくことがあります。しかし、自分が間違えたことを認めるのはとても難しいです。他の人の間違いを指摘することは簡単かもしれませんが。

 

正直であるならば、私たちは皆、自分たちが間違いと知りながら行っていることがあることを認めなければなりません。多くの人は、彼らが非難されるかもしれない、または部分的に非難される可能性がある事実を受け入れることができません。この異常な現象は、自動車事故の際に保険請求書を記入しなければならない状況に例えることができます。これはほんの少しの責任でも受け入れられない人の好例です。下のいくつかの項目のように、あるドライバーは、おそらく自分の過ちではないと他のドライバーを非難します。相手の非を主張し、自分に非はないと主張する例を挙げてみます。

 

「どちらにも非はないと思いますが、誰かが責任を負うのであれば、もう一方の車両です。」

「電柱が目の前に迫っていました。車は電柱に衝突しましたが、私はその状況を避けようと努力はしていたのです。」

「その男性が路上にいたので、彼にぶつかる直前に何度もハンドルを切らなければならなかったのです。」

「突然、車がどこからともなく出てきて、私の車にぶつかって消えたのです。」

「逆走してきたトラックと衝突したのです。」

「帰宅しましたが、違う車庫に車を入れようとしてしまい、ある筈がない木に衝突したのです。」

「居眠り運転をして事故に遭いましたが、私は40年もの運転経験があったのですよ!」

 

事故報告書に以下のような記述をした人が誰であったとしても、トイレが解決してくれるのか、整備士、はたまた文法の先生が最善の解決策になるかどうかは議論の余地があります。あなたはどう思われますか?

 

「車の自在継手が壊れて事故に遭った時、私はリアエンド(車体の後部、人間の臀部とも取れる)のトラブルで整備士のもとへ向かう途中でした。」

 

救い主の必要性を理解するために、この学びを読んでいるすべての人が直面している最も重要な問題に目を向ける必要があります。その問題とは、私たち全員が罪を犯し、神の栄光を現していないということです。例えば、ある方は、飛行機の墜落事故で機体が爆発する前に2人の人が脱出するのを手伝ってその命を救ったので、その善行の故に自分は死ぬ時も大丈夫だと言いました。彼に罪について尋ねたとき、罪を犯したことは一度もないと言いました。彼は道徳的に他の人よりも優れていると信じていたのです。彼の人生は他の人よりも優れていたので、神がすべての人の行いを説明させる審判の日も大丈夫だと信じ−騙されていました。

 

ほとんどの人は他人の人生を見て自分自身を評価します。ここで、私が言いたいことを説明しようと思います。あなたがこの文章を今読んでいる部屋に私がいて、あなたの側の壁を指差したとします。その壁が、すべての人々の程度を表しているとあなたに言ったとしたらどうでしょう?例えば、最悪な人がその壁の一番下にいて、壁の一番上に最高で最も正しい人がいると想像してみてください。あなたなら、誰を一番下に置きますか? 多くの人は、アドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリン、あるいはサダム・フセイン、あるいは上司とさえ言うでしょう!一方、 誰を一番上に置きますか?おそらく、マザーテレサ、ダイアナ妃、マーティン・ルーサー・キング、またはビリー・グラハムと答えるでしょう。そして、私たち全員が各々、壁のどこかにいることに同意するでしょうキース・トーマスもどこかにいて、多分あなたは私よりもっと高い場所にいるのかもしれません。

 

さて、私たちが達すべき基準は何だと思いますか?私たちの多くは、人類の中の最高の者たちがいる最も高い場所、おそらく天井が基準になると答えるでしょう。しかし、それは聖書が語る基準とは異なります。私たちが読んだ聖書の一節(ローマ人への手紙3章23節)は、その基準は「神の栄光」、つまり「イエス・キリスト」「神の栄光に生きる理想の姿」であると語っています。基準は部屋の天井ではなく、空なのです。私たちのだれも、神の義の基準であるイエス・キリストを満たしていません。つまり、私たちは皆、基準を下回っており、それは罪が意味するところです。英語で「罪」と訳されたギリシャ語は、アーチェリーを語源とする「ハルマティア」という言葉です。矢で的の命中点を打つことができなければ、完璧ではありません。私たち一人一人が基準を下回っています。誰もが十分ではありません−不足しています!強盗や痴漢、さらには隣人と比べると、かなりうまくいっていると思うかもしれませんが、イエス・キリストと比べると、どれだけ足りないかがわかります。

 

イギリスの小説家サマセット・モームはかつて、「私が人生で行なったすべての行動と脳で生まれたすべての考えについて話せば、私は怪物と見なされることを知っています。」と語りました。 罪の本質は神に対する反逆であり(創世記3章)、その結果、私たちは神から切り離されます。放蕩息子(ルカの福音書15章)のように、私たちは自分たちの人生が混乱しているため、父の家から遠く離れています。しかし、中には「私たち全員が同じ立場にあるなら、神から離れていることは問題なのでしょうか?」と言う人もいます。答えは「そう」です。私たちの人生における罪の結果故に重要です。罪については「罪による堕落」「罪の力」「罪が受ける罰」、そして「罪の仕切り」の4つにまとめることができます。

 

  1. 罪による汚れ

 

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7章20−23節)

 

「これらのほとんどをしません。」とあなたは言うかもしれません。しかし、これらのうちの一つだけで私たちの人生を台無しにするのに十分なのです。私たちは、十戒(神から与えられた十個の戒律)は「十個からいずれかの三つを選び、答えよ」という試験のようであれば、と願うかもしれません。しかし、新約聖書は、私たちが律法の一つを破った場合、そのすべてを破ったのと同じ罪を犯していると語っています(ヤコブの手紙2章10節)。一つの罪はあなたの人生を堕落させ、御国の完全さから遠ざけるのに十分です。たとえば、「概ね違反ゼロ」な運転記録などありません。ゼロか、そうでないかのどちらかです。たった一つの運転違反によって、違反ゼロの記録は変わってしまうのです。また、警察官がスピード違反であなたの車を止めたとき、あなたは法律のどれにも違反していないなどと言い訳をせず、車から降りるでしょう。一つの交通違反は、あなたが法律に違反したことを意味します。ですから、同じように考えることができます。一つの罪が人を汚します。たとえば、殺人者になるためには殺人を何回犯す必要がありますか?もちろん、一回だけです。嘘つきになるために、何回嘘をつきますか?罪人になるには、いくつの罪を犯しますか?繰り返しますが、唯一の答えとは、たった一つの罪が人を汚すということなのです。

 

 

  1. 罪の力

 

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネの福音書8章34節)

 

私たちの正しくない行いには中毒性があります。私がマリファナを使用していた時、それが私の人生を破壊しているとよく分かっていましたが、麻薬は私を捕らえていました。やめようと幾度か試みましたが、結局できず、悪いことに状態はさらに悪くなりました。マリファナには中毒性がないといわれますが、実体験上そうではありませんでした。キリストに命を捧げるまで、私は麻薬から自由になることができませんでした。誰もがアルコール依存症になったり、気性の悪さ、嫉妬心、傲慢さ、プライド、利己心や悪口といった良くない性質を抱えたり、性的不道徳に夢中になったりする可能性があります。ある思考や行動パターンに依存すると、それに打ち勝つことは容易ではありません。これが、イエスが語られた「罪の奴隷」です。 私たちが行なっている罪は、私たちを罪の奴隷にする力を持っているのです。

 

リバープールの司祭であった、JC・ライルはかつて自著で次のように語りました。

 

「罪は不幸な奴隷の群れの手足を鎖で縛っています・・・しかし、その惨めな奴隷たちは、自分たちがとても自由であると誇るのです・・・このような奴隷制は他に類を見ません。罪は実に、最も厳しい主人です。この世での人生では惨めさや落胆、絶望を与え、最終的には地獄へと導きます。これらが、罪が私たちに支払う報いなのです。」

 

  1. 罪が受ける罰

 

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)

 

私をよく祈りに駆り立てるものの一つは日々の報道です。故意に子供を殺したり、虐待したりした親の話を聞くと、正義を切望します。渋滞中、パトカーと緊急車両だけが通行するはずの道路脇を車が走っていくのを見ると、腹立たしくなり、このような違反をする人たちが捕まるのを望みます。しかし、自分が仕事に遅れて、時間通りに会議へ行こうと急いでいるとき、それは別の問題です。私は正義を望んでいません。慈悲と恵みを望んでいます。車で急ぐ自分を警察官が大目に見てくれたら!とさえ思うのです。私は偽善者です!罪が罰せられるべきだと感じるのは正しいことです。法律は私たちが正しく人生を送るよう導くためにあり、罪は罰せられるべきであることを教えます。私たちの罪は、日々の仕事が給料に値するのと同じように「賃金」を稼ぎます。雇用主は、私たちがした仕事によって受けるに値するもの、つまり賃金を私たちに支払います。同様に、神はその正義において、私たちが罪の生活ゆえに受けなければならないもの、つまり聖書が地獄と呼んでいる状態永遠の神からの分離を私たちに与えなければなりません。罪の報いは死であり、それは永遠に神から離れるということです。

 

  1. 罪の仕切り

 

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59章1−3節)

 

パウロが罪の報いは死であると語るとき、その「死」とは肉体的なものだけではありません。預言者イザヤは、罪が私たちを神から引き離すと語っています。 それは霊的な死であり、その結果、神から永遠に孤立してしまいます。この神からの断絶は、時に私たちが人生で経験することで、罪のゆえに神から離れてしまっていると感じることがありますが、これはまさに、私たちが死んだ時に現実になります。私たちが犯す罪は神との間の仕切りとなるのです。

 

解決

 

私たちは皆、救い主に人生の罪の結果から救っていただく必要があります。イギリスの貴族院議長であった、クラッシュフェーンのマッカイ男爵は自著で次のように語りました。

 

「私たちの信仰の中心的テーマは、主なるイエス・キリストが私たちの罪のためにご自身を犠牲にして十字架にかかられたことです・・・救われたことへの感謝が深まるほど、主なるイエスへの愛は大きくなり、それ故に、イエスにお仕えしたいという思いが熱くなっていくのです。」

 

キリスト教の福音とは、神が、私たち一人一人が直面している窮状を見て、問題を解決するための措置を講じたことです。その解決策とは、私たち全員の身代わりになることでした。多くの本を執筆した英国国教会司祭のジョン・ストットがこれを神の「自己犠牲」と呼んでいます。私たちの身代わりに、神はひとり子イエスをこの世に送られました。使徒ペテロは次のように説明しています。

 

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷ゆえに、あなたがたは癒された。(第一ペテロの手紙2:24)

 

  1. 神の自己犠牲的な愛

 

自己犠牲とはどういう意味でしょうか?アーネスト・ゴードンは、彼の著書「クワイ河収容所の奇跡」の中で、第二次世界大戦中にビルマ鉄道で働いていた捕虜たちの実話を語っています。その日の作業が終わる度に、捕虜たちはそれぞれの作業場から集められていました。ある日、日本人の監視員が、シャベルがなくなったと大声で怒鳴り、誰が盗んだのか調べるよう命令しました。監視員は怒り狂い始め、妄想的な怒りに身を任せ、盗んだ者は前に出るように命じました。しかし、誰も動きませんでした。「全員死ね!死ね!」と彼は叫び、ライフルの引き金に手をかけ、捕虜たちに向けました。その瞬間、一人の捕虜が前に出ました。そして、彼が静かに黙って立つ間、監視員は彼を銃で殴り殺してしまいました。その出来事の後、捕虜たちが作業場に戻って道具の数を確認したところ、シャベルの数は欠けていませんでした。その一人の捕虜は他の人を救うための身代わりとして自ら前に出たのです。同じように、イエスは私たちの身代わりとして死ぬために、自ら前に出て、正義の要求を満たしました。

 

  1. 十字架の苦しみ

 

イエスは私たちの身代わりでした。彼は私たちのために十字架刑に耐えました。古代ローマのキケロは十字架刑を「最も残酷で恐ろしい拷問」と言いました。イエスは着物を剥ぎ取られ、鞭打ちの柱に縛られました。そして、鋭く刺々しい骨と鉛が織り交ぜられた4〜5本の革ひもでむち打たれました。3世紀の教会史の父であるエウセビオスは、ローマのむち打ちを次のように説明しています。「受刑者の血管はむき出しになり、・・・その筋肉や筋、内臓が露出していました。」むち打ちの後、イエスはローマの要塞内にある中庭へ連れて行かれ、そこでイバラの冠を頭につけられました。イエスは600人ほどのローマ兵たちに嘲笑され、顔や頭を殴られました。その後、彼は倒れるほど酷く出血している肩に重い十字架を運ぶことを余儀なくされ、クレネ人のシモン(マタイの福音書27章32節)は途中でイエスの代わりに十字架を運ぶよう強制されました。

 

彼らが処刑場に着くと、イエスは再び裸にされて十字架にかけられ、6インチの釘が手首のすぐ上に打ち込まれました。彼の膝は横にひねられており、脛骨とアキレス腱の間の足首に釘が打たれました。イエスを磔にした十字架が立ち上げられ、地面に差し込まれました。イエスは群衆の嘲笑にさらされ、激しい暑さと耐え難い喉の渇きに苦しみながら十字架上にかけられていました。命がゆっくりと絶えていく間も、彼は想像を絶する痛みの中6時間も十字架上にいました。酷いことには肉体的な苦痛だけではなく、世に拒絶され、友人たちに見捨てられたという精神的な苦痛もあったのです。

 

十字架でイエスが完成された贖いにより、あなたの支払うべき罪の代価は支払われ、神は今日、十字架の救いを受け取る人々に完全な赦しを与えることができます。主は私たちの苦しみに無関心ではありません。キリストは私たちを彼にふさわしいものとして受け入れてくださりました。主イエスは私たちの身代わりになって死に、私たちに対する神の愛を示してくださったのです。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)

 

結果

 

4つの例を用いて、聖書が語るイエスの十字架上での贖いについて説明しようと思います。

 

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ人への手紙3章21〜26節)

 

  1. 神殿での生けにえ

 

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(ローマ人への手紙3章25節)

 

旧約聖書では、罪にどう対処するかについて非常に特別な律法が定められていました。様々な生けにえのシステムがあり、罪の深刻さと清めの必要性を示していました。典型的な例として、罪人は神殿へ動物を連れて行きます。動物は傷のない、完全に近いものでなければいけませんでした。罪人は動物に手を置き、その上に罪を告白します。このようにして、罪は罪人から動物に移り、その動物は殺されます。この犠牲的な死は、罪の結果が死であることを意味し、唯一の解決策は身代わりになる者の死でした。このことは、バプテスマのヨハネが、イエスが来るのを見て叫んだときに明らかになりました。「『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』」(ヨハネの福音書1章29節)

 

  1. 奴隷市場

 

神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。(ローマ人への手紙3章24節)

 

借金は今日だけの問題ではありません。それは古代の世界においても問題でした。誰かが深刻な借金を抱えていた場合、彼らの唯一の頼みは、自分自身を売るか、借金を抱えていた人を売って借金を返済することでした。ある友人が借金のために市場で売られ、その価格が問われているとしましょう。そこにあなたが彼の借金を支払い、自由にすれば、あなたは彼を贖うことになります。同様に、イエスはサタンの奴隷市場から私たちを買い戻すために「贖いの代価」を支払われました。

 

  1. 裁判所

 

私たちは「神の恵みにより、・・・価なしに義と認められ」ています(ローマ人への手紙3章24節)。

 

パウロは「価なしに義と認められる」という言葉を使っています。正当化とは法的な用語です。あなたが法廷で無罪になった場合、あなたは正当化されたことになります。ある2人の人が同じ大学で友人になり、親密な友情を築きました。しかし、卒業した後、彼らは異なった道を進み、連絡は途絶えました。一人は裁判官になり、もう一人は犯罪者になりました。ある日、犯罪者となった友人は裁判官の友人の前に現れました。彼の犯した罪は有罪となるものでした。裁判官は彼の旧友に気づき、葛藤しました。しかし、 彼は裁判官だったので、正当でなければなりませんでした。友人の罪を大目に見ることはできませんでした。

 

その一方、裁判官は友人を愛していたので、彼を罰したくありませんでした。そこで彼は友人に、彼が犯した罪に対して正しい罰を与えると言いました。これが正義です。それから彼は、裁判官の席から降りて、罰金の額を小切手に書きました。彼はそれを友人に与え、代わりに罰金を払うと言ったのです。これが愛です。

 

この種の愛は、神が私たちのためにしてくださったことの実例です。神の正義は、私たちが罪を犯しているので私たちを裁きます。しかし、神の愛は、神のひとり子イエスを与え、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。このように、神は(罪を罰せずにおくことはできない点で)「義」であり、イエスを信じる者を義と認める方でもあります(ローマ人への手紙3章26節)。罪を神のひとり子によって、神御自身が負われたことにより、私たちを自由にすることができたのです。

 

実はここで用いている描写は、3つの理由から正確なものだとは言えません。一つ目に、私たちの窮状はずっと悪いです。私たちが直面している罰とは、罰金のようなものではなく、死です。肉体的な死だけでなく、私たちを創造された神から離れてしまうこと、つまり霊的な死です。二つ目に、関係はより緊密なものです。友人関係以上の、地上における親よりも私たちを愛している天の父との関係です。三つ目は、その罪に対する支払いは相当なものでした。神は金銭的な代価ではなく、罪の代価を支払うために神のひとり子を犠牲にしたのです。私たちを救ってくださるのは、罪のない第三者ではなく、神ご自身なのです。

 

  1. 権威者からの恩赦

 

・・・神はキリストにあって、この世を自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、・・・(第二コリント人への手紙5章19節)

 

放蕩息子(イエスが語った神の憐れみに関する有名なたとえ話;ルカの福音書15章11〜32節)のようなことは、私たち一人一人に起き得ます。神の愛と恵みの贈り物を受け取るなら、神は私たちをご自身と和解させ、罪を取り去ってくださいます。神はあなたを価なしに赦すために、あなたの身代わりとなりました。

 

あなたは神の赦しを受け入れますか?

 

1829年、フィラデルフィアのジョージ・ウィルソンという男性が米国郵政公社で強盗し、殺人を犯しました。ウィルソンは逮捕されて裁判にかけられ、有罪となり、絞首刑の判決を受けました。しかし、何人かの友人がその男性の代理で訴訟に参加し、ついにアンドリュー・ジャクソン大統領から恩赦を得ることができたのです。しかしながら、ウィルソンがその知らせを受けた時、彼は恩赦を拒否したのです!保安官は彼を処刑するのに気が進みませんでした−どうして赦された者を罰することなどできるでしょうか?そして、保安官はジャクソン大統領に控訴したのです。困惑した大統領は、判決を下すために合衆国最高裁判所に向かいました。マーシャル裁判長は、恩赦とは一枚の紙であり、その価値は恩赦を受けた本人が決めるものだという判決を下しました。死刑判決を受けた人が恩赦を拒否するとは考えにくいですが、拒否された場合、それは恩赦にはなりません。ウィルソンは絞首刑にされなければなりません。そのような訳で、恩赦が与えられていましたが、結局ウィルソンは処刑されました。あなたが死刑囚であったら、裁判長−この宇宙を想像された神−から与えられる完全な恩赦をどうするでしょうか?

 

親愛なる読者の皆さん、あなたはどうですか。あなたを愛し、あなたの罪が赦される方法を与えてくださった神に祈る時ではないでしょうか。

 

この祈りを祈ってみてはどうでしょうか。

 

父なる神様、私がこれまで犯してきた罪を告白し、謝りたいです。(少し時間を取って、心にある事柄について具体的に神の赦しを求めてみてください。)私を赦してください。私は犯してきた罪をもう背負いません。あなたが私のために、十字架によって罪を赦すために、ひとり子イエス様を送ってくださったことを感謝します。イエス様の十字架によって、私は赦され、解放されます。これからは、私の主としてイエス様に従います。あなたからの赦しと聖霊の贈り物を今日受け取ります。感謝します!私の人生に臨んでください。私は永遠にあなたと生きたいのです。主イエス・キリストの名とその権威によってお祈りします。アーメン(その通りですの意)。

 

この学びの多くは、ニッキー・ガンベルのアルファコースを参考にしました。

彼の著書「人生の疑問あれこれ」(英題Questions of Life)をお勧めします。

 

キース・トーマスより翻案

Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

ウェブサイト:www.groupbiblestudy.com

 

本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。

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