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6. The Wedding of the Lamb

6.子羊の婚礼

永遠について考える

 

準備運動:これまでに参列した結婚式を思い出してください。一番思い出深い結婚式はどれでしたか?その式を特別に感じた理由は何でしょうか?

神と出会い、そして知ること

 

アーウィン・ルッツァー(アメリカの牧師)は、使用人を市場に使いに送ったバグダッド(現イランの首都)の商人の寓話を話しました。使用人が用事を終えて市場を去ろうとし、道角を曲がった時、死神に遭遇しました。死神の姿かたちは彼をとても怯えさせたので、市場を去り、急いで家に帰りました。彼は主人に起きたことを話し、死神から可能な限り遠く離れることができるように主人の所有する最速の馬――夜明け前に彼をスメラ(現トルコ)に連れて行くことのできる馬を求めました。その日の午後遅くに、商人も市場に行き、彼も死神に遭遇しました。「なぜ今朝、私の僕を驚かせたのですか?」と主人が尋ねると、「彼を驚かせるつもりはありませんでした。驚いたのは私の方です」と死神は答えました。「今夜、スメラで会うはずでしたから」。

 

あなたも私も、死と出会う運命にあります。死から逃れることはできず、また隠れることもできないのです。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル人への手紙9章27節)。感謝なことに、天には「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言ってくださる神がおられます(ヘブル人への手紙13章5節)。一人で死に向き合う必要はないのです。キリストは、世の終わりまで私たちと共にいてくださると約束されました。

 

ジョージ・ブッシュ(1924〜2018)が副大統領だったとき、彼はソ連の元指導者レオニード・ブレジネフの葬儀に米国を代表して参列しました。ブッシュはブレジネフの未亡人が行った無言の抗議に深く感動しました。未亡人は棺が閉じられる瞬間まで側から離れずに立っていました。それから、兵士がふたに触れた時、彼女は素晴らしい勇気と希望の行為をとりました。それは、これまでに犯された市民的不服従の最も深刻な行為の一つとして間違いなく位置付けられることでしょう。彼女は手を伸ばして夫の胸の上に十字架の印を切りました。世俗的で無神論的な力が蔓延する要塞の中で、それらを支配していた夫の妻は、夫が間違っていることを願っていました。彼女は別の人生があること、十字架で死んだイエスがこの人生を最もよく表していること、そしてイエスがこの時に至っても夫を憐れまれることを願っていました。レオニードはキリストと彼の御言葉にあるすべての知恵を打ち消そうとする共産主義国の指導者でしたが、その妻でさえが、心に永遠への希望を抱いていた隠れ信者だったのです。

 

私たちは、神が私たちの運命について何と語っているか、そして私たちが永遠をどこで過ごすかを探求するため、これまで5つの学びという長い道のりを歩んできました。私たちはこの世界に生きるためだけに創造されたのではありません!私たちには、この世界のことだけに心をいっぱいにさせようとする敵がいます。その敵であるサタンは、キリストにある別の人生、はるかに良い人生に関する全ての考えを打ち消したいと願っています。サタンは私たちが永遠に目を留めることを望んでいませんが、私たちが騙され、虚しく感じる状態を保つために、この物理的で物質的な世界にのみ魅了されることを望んでいます。敵は、私たちが今の人生はほんの一時的で、別の人生に備えているのだと考えさせたくありません。イエスは、人は死んだとしても、生きると言われました(ヨハネの福音書11章25節)。永遠を否定し、その考えを締め出すこともできますが、死が終わりではないという私たちの内なる知識は消えることがありません。天にはあなたを諦めなかった神がいます。神はあなたが本当の家へ帰る道を見つけるかもしれないと、あなたに呼びかけておられます。心を尽くしてわたしを捜し求めるとき、あなたはわたしを求め、わたしを見つけるでしょう(エレミヤ29章13節)と神は言われます。イエスは弟子たちに次のように言われました。

 

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネの福音書14章2〜6節)

 

イエスは、この地上に戻ってきて、信者たちを迎えに来ると言いました。彼を信じますか?本当の家への道を見つけましたか?その道は方向のことではなく、その人――主イエス・キリスト御自身――のことです。イエスはあなたの罪の罰を支払いました。また、イエスをあなたの人生にお迎えし、永遠のいのちという贈り物を受け取るように招いています(エペソ人への手紙2章8〜9節)。あなたは主イエス・キリストというお方のもとに来る時のみ、本当の家にいるという内なる確信を持つことができます。イエスの母親であるマリアの掟を覚えていますか?マリアは聖書にも記録されているある掟を与え、ガリラヤのカナの婚礼で召使いたちに向かって「あの方(イエス)が言われることは、何でもしてください(ヨハネの福音書2章5節)」と言いました。これらの言葉に、素晴らしい知恵があり、私たちもそれに耳を傾けて従う必要があります。

 

イエスは次のように言われました。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します」(ヨハネの福音書14章21節)。私たちはキリストへの愛を彼の命令に従うことによって示します。これが大切なこと――宇宙を創造された神を愛すること――です。キリストがあなたのためにしたことの全てを理解したら、あなたはキリストを愛さずにはいられません。ときには、私たちは聖書に書かれている明確なこと――愛なる神が堕落した人類との和解を求められていることなど――を時々見落とします。初めから終わり――創世記から黙示録――まで、神が全ての諸国から人々――神を知るようになる人々――が神を知るだけではなく、親密に知るように御自身のために召しておられるのをみます。住んでいる国やその行いに関わらず、キリストはあなたが神を近く親しい、愛なる関係のうちに知るための道を作られました。

 

質問1)イエスは一度、聖書のなかで一番大切な命令は何かと尋ねられ、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(マタイの福音書22章37節)」と答えられました。なぜ神を愛することがとても重要なのでしょうか?

 

教会――キリストの花嫁

 

私のお気に入りの映画の一つは、「ラスト・オブ・モヒカン」です。スター俳優のダニエル・デイ・ルイスが演じたホークアイには、インディアンの部族にまさに捕らえられようとしているガールフレンドのコーラがいました。彼らが再会する唯一の望みは、ホークアイが彼女のもとを去り、後で彼女と彼女の妹に追いつくことでした。ホークアイはコーラに、「私はあなたを見つける。何があっても生き続けてくれ。どんなに時間がかかっても、どんなに遠くても、私はあなたを見つける」と言います。さて、私たちに与えられたロマンスの感覚はどこから来ると思いますか?天からです!宇宙を創造された神は民の罪によって、御自身の民から隔てられました(イザヤ書59章2節)。神は何千年にもわたる年月をかけて、民と一つになり、彼らを新しいエルサレムに連れ戻し、そこで彼らと一緒に住むことを切望していると呼びかけています。神の呼びかけとは何ですか? ――「あなたはどこにいるのか?」(創世記3章9節)。しかし、敵に耳を傾けて従った結果、アダムとエバはエデンの園で主なる神から隠れてしまいました(創世記3章8節)。今日でも多くの人が神から隠れていますが、神は彼らに呼びかけ、彼らが応答して、不潔なぼろきれのような独善を放棄し、罪に対する神の備え――キリストの義の賜物を受け取ることを望んでいます。どんなに時間がかかっても、どれだけ遠く神から離れていても、あなたが神に心を開くなら、神はあなたを御自身のもとに引き寄せたいと願っています。「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます」(ヨハネの福音書6章44節、強調は筆者によるもの)。あなたがこれらの御言葉を読んでいるという事実は、父なる神があなたを引き寄せている証拠です。

 

イエスは大いなる羊飼いであり、丘の中腹をさまよって、群れの羊飼いから遠く離れている子羊を見つけます(ルカの福音書15章4節)。イエスはご自分の民を知っており、名前で呼んでおられます。イエスは、罪を贖う救い主の必要性を示すため、長い時間をかけて多大な努力を重ねてこられました。神の計画は、誰もが最愛の人のためにすることのできる最も愛情深い行為を要求しました。イエスは人々が罪から解放されるために死なれました。この愛の行為は、宇宙で最も強く、最も強力なもの、つまり愛の力――アガペーの愛――をもたらします。この種の愛は自己犠牲的であり、その恵みを受けた人から愛の反応をもたらします。神は教会である花嫁の心を御自身に勝ち取り、特に神から遠く離れた人々の心を捕らえるために、そのひとり子を世に送りました。

 

私たちが神にとってどれほど特別な者であるかを示すため、使徒パウロはコリントの教会宛の手紙において、あえてキリスト御自身との婚礼に向けて整えられている新生した信者たちについて語っています。

 

私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。(第二コリント人への手紙11章2節)

 

神は彼らに帰ってきてほしいのです。男女の間の結婚式はちょうどキリストにあって、神が神に属する者たちである教会のためにしたことの型です。使徒パウロは神が彼に与えた使命を、キリストの花嫁が婚礼のために清く染みのない者となるように整えるというように見たのでしょう。何をしたか、どこにいたかに関わらず、花婿はあなたを清くすることができ、また清めたのです。もしクリスチャンであるなら、あなたにはキリストがカルバリの十字架においてあなたのために買い取ってくださった、清い義の衣が与えられています。キリストは花婿に家に帰ってくるよう呼びかけておられます。

 

この結婚関係の例えを用いるのはパウロだけではありません。預言者イザヤも神の霊感によって、次のように書きました。

 

若い男が若い女の夫となるように、あなたの息子たちはあなたの夫となる。花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。(イザヤ書62章5節)

 

質問2)男女の結婚式について考える時、式のどのような伝統が神と教会の関係を象徴し表現すると考えますか?

 

結婚式におけるこの天での結びつきを表すものの一つは花嫁が父と母を離れて、婚約者と一つになることです。使徒パウロは、他の書簡において結婚に関して書く際、キリストと一つになることについて次のように綴っています。

 

「・・・それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ人への手紙5章31〜32節)

 

パウロは二つの観点から話しており、一つ目は夫とその妻の関係ですが、二つ目はキリストとキリストの花嫁である教会の天での結びつきに関することです。ある不思議な方法で、私たちはキリストと有機的な結びつきへと導かれました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。・・・わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネの福音書 15章1,4節)二つ目に心に浮かんだことは、花嫁が花婿の名字を名乗るようになることです。私たちは「クリスチャン」として知られていますが、聖書は神の御名が私たちの額に記されると書いています(ヨハネの黙示録22章4節)。その名前はキリストのご性質の象徴であり、私たちの額もまた私たちの人生や心を象徴しているのです。

 

指輪は何を象徴しているのでしょうか?おそらく、指輪は、円が終わりのない永遠を表すように、永遠のいのちを表しています。結婚では、花婿の所有するものが花嫁のものにもなります。同じように、天の資源はキリストの花嫁である教会に与えられます。私たちがしなければならないことは、キリストに尋ねることです。なぜならキリストは、「・・・わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです(ヨハネの福音書14章13節)」と約束されたからです。キリストは花嫁から何も差し控えたりしません。聖書は、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました(第二ペテロの手紙1章3節)」と語っています。また花嫁は、キリストの花嫁が婚礼の日に輝くきよい亜麻布を着るように、清さを表す白い衣装を身にまといます。

 

また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(ヨハネの黙示録19章6~8節)

 

質問3)もし救いと永遠が完全に贈り物であるなら(その通りですが)、花嫁の用意ができた(英訳では「花嫁が自分を整えた」)ということは何を意味するでしょうか?どのように私たちは準備できるでしょうか?

 

キリストがその瞬間――この世での人生が終わった時――にいらっしゃることを知っているあなたは、神にハレルヤと叫ぶ大勢の人々の一員になることを想像できますか?信仰の戦いが終わり、すぐに子羊なるキリストとの結婚式が行われると想像してみてください。このような神との関係を望まない人がいるでしょうか?それらすべての声が混ざり合った大合唱は、「多くの水」のようにとどろきました。同様に、主に贖われた者たちの喜びは想像を絶するものになるでしょう。なんと幸せな日でしょう!その日、私たちが主イエスを見つめるとき、主イエスの御顔も喜びに満ちていると思いませんか?イエスは私たちのために完成された十字架の贖いを通して、あなたを見てくださいます。ここで、C.H.スポルジョンの言葉を引用させていただきます。

 

子羊の婚礼は、天の父の永遠の賜物の結果である。私たちの主は、「それらはあなたのものであったが、あなたはそれらをわたしに捧げた」と言われる。主イエスの祈りとは次のようなものだった。「父よ。あなたが私に与えてくださった彼らが、私がいる場所に私と共にいることを望みます。あなたが私に与えてくださったわたしの栄光を、彼らが見るためです。なぜなら、世界の基が据えられる前からあなたはわたしを愛されたからです。」天の父は選ばれた。その選りすぐりの者たちを子に受ける分として与えられた。人のために、神は贖いの契約を結ばれた。その時が来て、神は彼らの性質を引き受け、彼らの罪の罰を支払い、彼らを解放し、神御自身のものにすることを約束された。

 

次に−−これが婚約の完了であり、それぞれがその時にかなってなされた。それらの違いを詳しくは述べない。しかし、あなたと私に関係があることとして、私たちが最初に主を信じたとき、主イエスは私たち一人一人と義にあって婚約されたのである。その後、私たちが「私の愛する方は私のもの、私は、私の愛する方のもの」と賛美することができるように、イエスは私たちを彼のものとし、彼自身を私たちにくださった。これが結婚の本質である。エペソの信徒への手紙の中で、パウロは私たちの主を、すでに教会と結婚しておられる方として示している。これは、花嫁が婚約したときに、結婚のすべての神聖さがその婚約の中に組み込まれているという東洋の習慣によって説明することができるだろう。花嫁が夫の家についに入るまでにはかなりの時間がかかるかもしれない。花嫁は彼女の以前の家族と一緒に住んでいて、まだ彼女の家系や父の家を忘れていないが、それでも彼女は真実と義に娶られている。その後、彼女は実際の結婚式と呼ばれる、その定められた日に花婿の家に連れてこられる。それでもなお、婚約は、東洋において、結婚の本質なのである。

 

新婚の家

 

中東における婚礼では、婚礼の後に新婚の夫婦が住む場所を用意したり、建てたりすることもまた花婿の責任です。

 

神が神を愛する者たちのために備えておられる場所のことを共に見ていきましょう。

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(ヨハネの黙示録21章1~7節)

 

聖なる都が天から降りてくるのです。その都は私たちが地上に建てるようなものではなく、キリストが造られたものであり、キリストの民のために地上に降りてくることを心にとめてください。それは新しいワシントンや新しいロンドンなどではなく、神が永遠に住んでくださると約束された場所である「新しいエルサレム」です。「わたしの目と心は、いつもそこにある」(第一列王記9章3節)。イスラエルの神に敵対する者たちがエルサレムをどうしても手に入れたい理由はそのためでしょうか?敵はエルサレムから神の名を完全に消し去りたいと願っていると同時に、サタン自身が具現した姿、反キリストがエルサレムの中心にある聖なる山で王座に就こうとしているのだと私は考えます。(第二テサロニケ人への手紙2章4節)。

 

2節は「新しいエルサレム」が整えられた花嫁として降りてくると語っています。私はこの一節を説明することができませんが、ある人々はこの一節をその都自体が花嫁であるといって説明します。この観点は、私たちが生ける石として神殿に築き上げられていることを思わせます。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」 (第一ペテロの手紙2章5節)。しかし反論として、ヨハネの黙示録21章27節には、これらの子羊のいのちの書に名前が記されている人々はその都に住むと書いてあります!神御自身が彼らとともに住むのです。この都は私たちの住む場所となり、神御自身が私たちとともにおられます。ヨハネが黙示録に書いた言葉を読んでみましょう。

 

「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。(ヨハネの黙示録21章9~27節)

 

質問4)神があなたのために用意されている住まいに関する描写について、印象に残ったところはどこですか?王座を構えるのに当たって、全宇宙のどこにでも据えることができるのに、なぜ全能の神である主と子羊なるキリストが地上の新しいエルサレムに住まいを用意されるのでしょうか(22節)?

 

この都の周りにある壁は144キュビットの厚さです。それは約216フィート(約65メートル)に等しい値です。新しいエルサレムの大きさは一万二千スタディオンであり、長さも幅も等しいです。それは、今日でいうと幅と長さがそれぞれ約1400マイル(約2253キロメートル)です。これは、カリフォルニアから米国東部のアパラチア山脈、そしてカナダからメキシコに広がる地域と同じ大きさです。平面面積だけでも約200万平方マイル(約520万平方キロメートル)です。しかし、高さも幅と長さと同じくらいの距離があるということも忘れないでください(16節)。各階が約12フィート(約4メートル)と見積もる場合、その建物は約60万階にもなります。何十億もの人々が一人当たり何平方キロメートルもの余裕を持ってそこに住むことができるでしょう。都市の形は完全な立方体です。ソロモンの神殿には、年に一度、屠られた動物の犠牲の血を持った大祭司だけが、人を神の臨在から隔てる重い幕を越えて入ることのできる部屋がありました。この幕は、十字架でのキリストの犠牲的な死のまさにその時に引き裂かれました(マタイの福音書27章51節)。神が住まわれた最も聖なる部屋は、20キュビトの立方体でした(第一列王記6章20節)。

 

新しいエルサレムの大きさは、神が人にともに永遠に住むことを願われる事実を反映しています。それは神の濃厚な臨在の中に招かれ、至聖所で永遠に神と神の民との交わりを楽しむ私たちの姿です。それは城壁の土台石に自分の名前が刻まれているのを見た、黙示録を書いた使徒ヨハネにとって、どんなに麗しい情景だったことでしょう(ヨハネの黙示録21章14節)。私たちはまだ、この世でキリストのためにする働きが他の人々にどのように影響するか分からず、それは神だけがご存知ですが、ヨハネがその時点で彼の影響の大きさを知ることを許されたことは興味深いです。

 

これはイエスが「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです」(ヨハネの福音書17章21節)と祈られた祈りの答えです。新しいエルサレムはキリストが花嫁と永遠を楽しまれる場所です。その都には、心と思いの一致があり、私たちがキリストといつまでも共に過ごす場所なのです。

 

(神のしもべたちは)御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。(ヨハネの黙示録22章4節)

 

何と素晴らしい喜びとなることでしょう!キリストの御顔を仰ぎ見ることは、彼の麗しさを仰ぎ見ることであり、その関係に生きることです。神があなたに置かれている価値を見出し始めていますか?「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは」とダビデ王は言いました。この宇宙の全ては、全能の神である主とそのひとり子が住まわれる場所であるのに、神が新しいエルサレムで人とともに住むことを選ばれるとは、私たちは神にとってどれほど特別な存在なのでしょう!どこにいようと、天の神はあなたが家に帰ってきて、神と共にいつまでも住むためにあなたを探しています。その招きはあなたとあなたのご家族のためです。その招待券を勝ち取るためにあなたができることは何もありません。なぜなら、これは信じられないような神のご厚意―恵み―によるからです。あなたの人生を神に捧げますか?神は天があなたの永遠の家であることを知ってほしいと願われています。

 

この学びを終えるにあたって、下のリンクをクリックするか、このリンクのアドレスをブラウザに貼り付けてください。約7分間の賛美動画を視聴することができます(英語の賛美です)。すべての造られたものはその日を待ち望んでいるという内容の歌です。

 

http://www.youtube.com/watch?v=qSI4lNTdhgo&feature=related

 

祈り:天のお父さん、永遠について教えてくださってありがとうございます。あなたが私のために場所を備えてくださっていること、それが本当の人生を永遠に生きるための場所であることを日々思い出させてください。あなたと永遠に生きるための備えをさせてください。アーメン!

 

キース・トーマスより翻案

 

Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

 

ウェブサイト(関連する学びを閲覧できます):www.groupbiblestudy.com

 

本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。

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