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5. The Millennium

5. 千年王国

私たちのうちには、永遠を想う心がある

 

私たちは今、「永遠について考える」シリーズの5回目の学びに入ります。これまでの学びを通して、皆さんが永遠というテーマに関する洞察を得て、キリストの十字架によって贖われたことを完全に確信していると願っています。どういうわけか、私たちのうちの大多数の心情は、地上での短い期間に経験するこの人生が全てであるとは思っていません。まず、人生の複雑さに目を向けたり、原子の構造を解明しようとしたり、証拠を追求するにつれ、創造主を否定する理論を受け入れることは完全に非論理的であることが分かります。科学によっては答えられない問題があります。私たちの心のうちには、今ここで経験することだけが人生ではないと訴える何かが存在します。人類史上最も知恵に満ちた人物の一人として知られるソロモン王は次のように述べています。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3章11節)

 

ソロモンは、聖霊によって、私たちの内なる性質には永遠への想いが神によって刻印されていると述べ、神の想像力あふれるデザインについて語りました。フランス語の聖書では、神が「わたしたちの心に永遠の思いを定めた」と原文のヘブライ語を翻訳しています。チャールズ皇太子はかつて、人間の魂の内なる空虚について話しました。彼は、「科学から享受できるすべての利益があるにもかかわらず、魂の奥深くには、何かが欠けているという永続的で無意識の不安が残っている」と語りました。また、ダイアナ妃はチャリティーイベントで講演した際、「現代における人生の複雑さを乗り越え、対処しようとする多くの人々の努力を、圧倒的な喪失感と孤独感が蝕んでいる。彼らは、何かが欠けていることを知っている」と語ったのです。私たちの心の奥底には、キリストに至るまで、虚無感や魂の空虚感がつきまといます。私たちは薬物、お酒、セックス、所有物、権力、お金や名声によってそれを満たそうとしますが、私たちはその空虚さとともに造られたので、何によっても満たされないのです。フランスの哲学者で数学者のブレーズ・パスカルが述べたように、「すべての人の中には神の形をした空洞がある」のです。

 

C.Sルイスは自著「キリスト教の精髄」にて次のように述べました。

 

それらの欲求への充足感が存在しない限り、人は欲望を持って生まれてはこないであろう。赤ん坊は空腹を感じる。ゆえに、食べ物というものがある。アヒルの子は泳ぎたがる。ゆえに、水というものがある。男は性的欲求を感じる。ゆえに、セックスというものがある。この世界での体験では満たすことができない欲求を自分の中に見つけた場合、それを十分に説明することができるのは、自分が別の世界のために作られたということだ。地上での充足感のどれもが、それを満足させなくとも、それは宇宙全体がいかさま師であることを証明するものではない。おそらく世俗的な喜びは、それを満たすことが目的ではなく、むしろ、それを喚起し、本物を示唆することを目的としたものだった。

 

5世紀頃の哲学者アウグスティヌスは、「我らの心は汝(神)のうちに安らぎを見出すまで安まらない」と述べました。この欠けた部分とは神ご自身のことです。神は生ける水であり、いのちのパンなのです。神のみが私たちを満たすことができる唯一のお方です。預言者ハガイは次のように述べました。「わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。──万軍の主は言われる── (ハガイ書2章7節)」すべての国々が望むお方(宝物)、イスラエルの聖なるお方、救い主イエスが来られ、地に立つとき、私たちはよみがえりのからだで神を見ます。ヨブは次のように私たちに教えています。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剝ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。(ヨブ記19章25〜27節)」イエスの再臨と地上におけるその臨在は輝く平和の時代の始まりです。この学びでは、王の王なるイエス・キリストの統治にある義、喜びと平和の千年王国について聖書が何を語っているかを考察していきます。

 

質問1)今日の社会において、霊的な飢え渇きへのどのような証拠がありますか?この飢え渇きが私たちの文化においてどのように表れていると考えますか?

 

千年間の平和

 

復活のからだに関する第3回の学びでは、キリストの再臨における聖徒の復活について話しました。新たに生まれ、キリストと共に歩む人々は、不滅のからだ−朽ちないからだを受け取ります。このからだはキリストの復活のからだに似たものです。からだは「卑しいもので蒔かれ」ますが、「栄光あるものによみがえらされ」ます(第一コリント15章43節)。聖徒は千年の間キリストと共に王国を治める権威を与えられ(黙示録20章4節、第一コリント6章2節)、サタンは束縛されて底知れぬ所に投げ込まれます(黙示録20章1〜3節)。

 

また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(ヨハネの黙示録20章1〜6節 強調は筆者による)

 

神学者や学者は、この千年のキリストの治世を「千年王国」と呼びます。英語で「千年王国」を指す “millennium” という言葉は「千」を意味します。千年王国については3つの説があります。一つ目は、「無千年王国説」と呼ばれます。無千年王国説支持者は、上記の箇所で5回言及された「千年」は文字通りの数字ではなく、象徴的な数字であり、私たちが今生きている教会時代を表していると信じています。二つ目は、「後千年王国説」です。後千年王国説支持者もまた、上記の一節で言及された「千年」の期間は文字通りの数字ではないと信じています。その見解によると、教会がキリスト教倫理の黄金時代をもたらし、その期間の後イエスの再臨が起こります。三つ目は、個人的に支持している「前千年王国説」です。前千年王国説支持者は、イエスの再臨は苦難の時代(聖書用語で患難時代)の後に起こり、聖徒−つまり御霊によって新生した人々−をよみがえらせ、聖徒は地上で文字通り千年の統治において、イエスと共に治めると信じています。

 

エデンの園に現れた古代の蛇、また悪魔やサタンとも呼ばれる竜が縛られると、3節では「底知れぬ所」(ギリシャ語では “abussos”、「底知れない;底なし、計り知れない、巨大な、無限、計り知れないこと」を意味する言葉が使われています)にそれらが投げ込まれると書かれています。千年が過ぎ去るまで戦争はありませんが、千年の後サタンはしばらくの間解放されなければならないと聖書に書かれています。

 

質問2)サタンが縛られる時、私たちの世界がどのようになるか想像してみてください。サタンの影響からの完全な解放はこの世に住む人々にどのような変化をもたらすと思いますか?

 

キリストのからだである聖徒たち、彼らの新しい復活のからだには、悪と罪への誘惑がなくなります。聖書は、サタンが底知れぬ所に縛られているので、もはやサタンが地上で民を惑わすことはないと告げています(3節)。私たちの復活のからだは、危害を被ることへの恐れをすべて取り除きます。死への恐れはもうありません。イエスが再臨された後、聖徒は朽ちることがないからだを受け取ります。私たちの罪の性質もまた取り除かれ、罪を犯したいという欲求は全く起こらなくなります。私たちの能力に制限がかからなくなるので、私たちの創造性が解き放たれます。私たちのからだや魂、そして心が、制約のない、異なる次元で機能するのを見るでしょう。そして、神が意図された「いのち」を経験します。キリストにある人々が朽ちることのないからだを身につける時を被造物全体が待っていると書かれています(第一コリント15章54節)。その時、何かが動物界の性質を変えるのではないかと考えます。

 

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(ローマ人への手紙8章19〜22節)

 

使徒パウロがローマの教会宛に「被造物」について手紙を書いたとき、どのような心境であったのだろうかと思い巡らします。パウロは人間をとても恐れている動物界について言及していたと個人的に思います。エデンの園での堕落以来、人間と動物界の関係は悪化してきました。今日、私たちは、被造物に大きな苦しみをもたらす現代の農業と畜産方法の破壊的な影響を目にしています。動物界に対するこの扱いは神が意図したものではなく、動物は人類とともに苦しんでいます。すべての動物界のうめき声と内なる願いは、イエスが再臨されて千年王国が始まるときに、人類と他の動物に対する恐れの性質が変えられることです。預言者イザヤもその時について、以下のように語っています。

 

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。(イザヤ書11章1〜10節)

 

イザヤは、この変化の時をもたらすお方について話すことから始めます。教会が悪のすべての力に打ち勝つのではなく、エッサイ(ダビデ王の父)の切り株からの新芽がそれをなすのです。ダビデの子孫の一人から、地を裁く王が出てきます。この方、主イエスは、見たり聞いたりすることで物事を判断することはありません。すべてを知っていて、すべてについて完全な判断力を持っているので、困難な状況をも裁かれます。またこの方は義によって治めます。この方は地上に来て、人の性のもっとも暗い部分と不公正に苦しめられましたが、すべてに打ち勝ちました。イエスは彼自身の言葉によって話し、創造する力を持っておられる方です。彼の口の息で、悪しき者を殺されます(4節)。「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ(マラキ書3章2節)」。

 

質問3)イザヤ11章9節は「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」と語っています。この箇所が何を意味しているのか話し合ってみてください。「主を知ること」が地を満たすことについてどのように考えますか?被造物にはどのような影響があるでしょうか?

 

キリストが王位に就いているときに起こる変化に注目してください。互いに相反する動物たちが、互いに並んで食べます(6〜7節)。狼と子羊が夜、一緒に横になり、ともに暮らしています。地上で最も肉食的な動物の一つであるライオン(獅子)は、牛と同じようにわらを食べます(7節)。それから、マムシの巣に手を伸ばして毒ヘビと遊ぶ子供たちがいます(8節)。この預言が、キリストが生まれる約600年前に与えられた時、イスラエルには凶暴な獣がたくさんいましたが、イザヤは子供たちが獣たちと遊ぶ時代について語り、地が平和になると預言したのです。異邦の国々であるゴイム(ヘブライ語で「異邦の国々(複数形)」の意でイスラエル以外の国々を示す)は、神の知恵が地を覆うので、彼らは神を信頼し、神のとどまる所は栄光に輝くとイザヤは語ります(10節)。それは安息日−−千年の休息のときです。その時、地の平和と他者への善意の祈りがついに答えられるでしょう。神の臨在と統治がこれを成し遂げます。神の被造物すべても、ついに平和に生きることができるでしょう。

 

新天新地

 

イザヤは後の箇所(65章17〜25節)にて、地において重要な変化が起こる同じ時のことについて再び語っています。

 

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らは無駄に労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者の末裔であり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。──主は言われる。」(イザヤ書65章17〜25節)

 

主は、新しい地、そして新しい天があると語っておられます。これらは何を意味するのでしょうか?一見、その言葉は、私たちが皆、新しい星に移されるかのように解釈することもできます。しかし、そのような意味ではありません。ランディ・アルコーンは自著「ほんとうの天国」にて、「天地」という表現は全宇宙を表す聖書的名称であると書いています。

 

黙示録21章1節が「新しい天と新しい地」について語るとき、それは宇宙全体の変容を示している。「新しい」と訳されるギリシャ語の “kainos” は、神が創造する地球がもはや古くなく、また新しいものであるだけでなく、質そのものが新しく、性質が優れていることを示す。ウォルター・バウアーの辞書によれば、“kainos” は「古いものは時代遅れになり、新しいものに置き換える必要があるという意味で」新しいことを意味する。そのような場合、原則として、新しいものは古いものよりも優れている。したがって、「新しい天と新しい地の創造」は「現在の宇宙以外の宇宙の出現ではなく、見事に再生されながらも、現在の宇宙と一貫する宇宙の創造」を意味する。パウロは、信者が「新しく造られた者」になること(第二コリント人への手紙5章17節)について語る時、同じ言葉 “kainos” を使った。新しくクリスチャンとなった人が以前と同じ人であるように、新しい地は古い地と同じようになる。以前とは異なるのではないのか?異なるが、また同じものでもあるのだ。

 

地球が何世紀にもわたって存在してきたありかたは変化し、ほとんど記憶されないことでしょう(17節)。それは完全な刷新と回復の時になるでしょう。「新しい天」は、おそらく、敵が人類への策略を企ていた目に見えない領域にある敵の住処の破壊を指します。その時点まで、サタンは「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています(エペソ人への手紙2章2節)。使徒の働きを書いた弟子ルカは、イエスは「神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません(使徒の働き3章21節)」と書きました。地は本来の美しさと豊かさへと回復されます。千年王国の時に生きている者たちは、彼らが植えたものを刈り取り、長い間、その労働の実を楽しみます。また、彼らが建てるものは彼らが住む場所です。

 

イエスが聖徒の携挙と復活のために来られるとき、私が御言葉を読む限り、地のすべての人々が殺されるわけではないようです。聖徒の携挙と復活、そして神の怒りが注ぎ出された後、天使たちがキリストの王国からすべての悪を取り除きます。「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、(マタイの福音書13章41節)」。私の意見では、千年王国の間、地上にはまだ贖われていない人々がいるでしょう。キリストの再臨を待つ間、私たちには、この世、私たちの罪深い性質、そして悪魔といった3つの敵がいます。

 

贖われていない人々は、もはや邪悪な者からの誘惑と欺瞞に対処する必要はありません。千年王国は、最後の審判までの回復の期間となります。創世記にあるように、ほとんどの人が何百年も生き、祝福された時となるでしょう。最初の人間アダムは930年(創世記5章5節)、アダムの子セツは912年(創世記5章8節)、エノクの子メトシェラは969年(創世記5章27節)生きました。また、贖われていない人々は、千年王国の後にある「白い王座の審判」に出頭する必要があります。一方、神の御霊によって新たに生まれ変わった聖徒は、決して死ぬことはありません。朽ちないものへと変えられるのです(第一コリント人への手紙15章52節)。

 

天国と千年王国の違いを明確にしておきたいと思います。千年王国は、私たちが地上で神の王国を体験する時ですが、さらに素晴らしいことが待っています!千年王国の終わりに、新しいエルサレムが神の御元から降りてきて、そこにはもはや、死がないのです。

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章1〜4節)

 

聖書全体のテーマは贖いの計画についてです。イエスが罪のために死んだとき、彼は罪の刑罰を取り除くだけでなく、それを全て支払ったのです。神の義が満たされたので、キリストは物事を意図された目的−−意図された栄光に回復するための、すべての権威を持っています。キリストが統治するようになるとき、物事をあるべき場所に定め、私たちは宇宙全体の完全な救いを見るでしょう。そして、地はついに主の知恵を体験することでしょう。

 

多くの国々が、全地の中心である都エルサレムに来て、主を求め、主を礼拝します。これに勝るような宗教はありません。その日、すべての人は、サタンが人々を分断させ、治める戦略の一つが「宗教」であったことにようやく気付くでしょう。すべての人々は、神は唯一であり、神は全知全能であることを理解するでしょう。また、エルサレムの街そのものが変わります。主御自身がそこに臨在されるのです。

 

終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。(イザヤ書2章2〜4節)

 

主イエス・キリストが、エルサレムで王座に君臨しておられる世界に住むことを想像してみてください。戦車、銃や兵器はもはや必要ありません。人々はもはや戦争のために訓練する必要がないので、素晴らしい経済的繁栄の時になるでしょう(イザヤ書2章4節)。キリスト・イエスは、地上に聖徒によって構成される行政府を設立し、すべての国々は、王なるイエスが王位に就くことで、互いに平和を保つことができます。国、領土、州、都市や町を治める聖徒たちは、悪に抵抗し、神の民を世話することに忠実であったためにふさわしいとされた人々です。

 

エルサレム自体はその周りの山々よりも高く上げられます(2節)。現時点では、東側のオリーブ山からエルサレムを見下ろすことができます。ですから、エルサレムは、何らかの地質学的な出来事によって高く上げられる可能性があります。王なる主イエス・キリストは、私たちにご自分の道を教え、国家間の残りの不和不一致を解決します。聖書は、新しいエルサレムは、千年王国が終わるまで天から地に降りてくることはないと語っています(ヨハネの黙示録21章1〜2節)。その時まで、王イエスの王座はエルサレムにあり、そこでは多くの人々が王イエスを賛美し、礼拝するようになります(イザヤ書2章2〜3節)。預言者イザヤは言います、「あなたの目は麗しい王を見、遠くまで広がる国を眺める(イザヤ書33章17節)」。イエスがご自身の道を教えられる間、みなさんがイエスの御元に座ることを想像できますか?「『主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう』(イザヤ書2章3節)」。

 

ついには、イスラエル・パレスチナ問題も解決されることでしょう。イサクの息子たち−ヤコブとエサウの兄弟、その子孫であるユダヤ人とアラブ人に平和が訪れるのです。

 

その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ、アッシリア人はエジプトに、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリアと並ぶ第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリア、わたしのゆずりの民イスラエルに祝福があるように。」(イザヤ書19章23〜25節)

 

ついに、私たちはこの世のすべての問題に平和が訪れるのを目にします。水が海を覆うのと同様に、地は神の知恵によって満たされるので、平和が貪欲さ、利己主義や敵意に取って代わります(ハバクク書2章14節)。

 

祈り:

 

天のお父さん、あなたの贖いの計画に感謝します。この地上で今与えられている人生に本当の豊かさを見出すことができるように助けてください。この人生であなたが私たちに経験してほしいと願っている、また他の人々に分かち合うことを願っているあなたの恵み、憐れみや平安を求めます。「あなたの御国が来ますように、御心が天で行われるように、地でも行われますように」。アーメン。

 

キース・トーマスより翻案

 

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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。