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4. The Truth about Hell

4. 地獄の真実

地獄:避けることができない問題

 

私たちは今回、牧師や教師にはほとんど避けられている論題、そして可能であれば私たち全員がむしろ避けたい問題について学ぶことになります。そのトピックとは「地獄」です。この罪に対する神の裁きについて、C.S.ルイスが若い説教者の説教を聞いていたという逸話があります。説教の終わりに、若い説教者は「あなたがキリストを救い主として受け入れなければ、ゆゆしき終末論的影響に苦しむでしょう!」と言いました。礼拝の後、ルイスはその説教者に「キリストを信じない人が地獄に行くということですか」と尋ねました。「その通りです」と説教者は答えました。「それなら、そう言いなさい」とルイスは彼に言いました。「地獄」について学ぶことは不快かもしれませんが、このトピックは私たち全員にとって非常に重要です。

 

「このトピックを避けて通ることはできないのか」と言う人もいます。英国の偉大な説教者であるチャールズ・スポルジョンはかつて、次のように述べています。「地獄を軽く考えるならば、十字架の犠牲をも軽く考えることだろう。失われた魂の苦しみを考えないならば、いくらもたたないうちに、地獄の苦しみから救ってくださる救い主についてほとんど考えなくなるだろう。」地獄の問題を避けようとする人たちの中には、実のところ死は始まりに過ぎないのに、終わりであると願っている可能性もあります。私たちが危機に瀕していること、つまりキリストがいなければ、どのような運命にあったかを真に理解するとき、私たちはキリストが十字架上でしてくださったことをより感謝するでしょう。

 

このシリーズですでに述べたように、今日、死後の世界と臨死体験に大きな関心が寄せられています。その主題に関する本を見つけるのは難しいことではありません。このシリーズの最初の学びでは、臨死体験(NDE)をした150人の症例を研究したレイモンドA.ムーディ博士の著書「かいまみた死後の世界」に触れました。また別の医師であるモリス・ローリングズ博士は著書「死の扉の彼方」で再び臨死体験を研究していますが、ある人々は地獄を経験しつつも、その経験があまりにも酷いものだったので、数日後にはその記憶が無意識下に封印されたと報告しています。博士は原則として、人々は良い記憶は覚えていて、ひどい記憶は忘れているので、インタビューがほんの少し、数日、数週間、または数ヶ月遅れると、臨死体験の前向きな経験だけが報告されるだろうと述べました。

 

ローリングズ博士は、ペースメーカーを心臓に挿入する手術の後に臨死体験を語った若い男性の話をしています。彼はローリングズ博士に、彼が見たものと経験したことを話しました。彼は、光につながるトンネルを見た後、トンネルが発火したと述べています。彼は火の池に向かって勢いよく進んでいる感覚があり、それはまるで油が火に注がれたかのようでした。また、彼は動物園の檻に入れられている動物のように人々が前後を行き来している長い影を見ました。そして、彼は「イエスは主である」と叫び、次の瞬間、自分が自分の肉体に戻っていることに気づきました。

 

ローリングズ博士はまた、ペースメーカーを装着している時、死の危機に瀕していた患者にCPR(心肺蘇生法)を行ったときの出来事も語っています。その患者の意識は行ったり来たりしていて、自分は地獄にいたと泣き叫び、博士に祈ってくれるように懇願しました。ローリングズ博士は、当時まだ信者ではなかったので、その人のために祈りたくありませんでしたが、最終的に、その人の苦痛を和らげるために祈りました。博士はイエス・キリストに彼を地獄から遠ざけてくださるように頼みました。すると、患者はすぐに落ち着き、もはや悲鳴を上げる狂人ではなくなりました。この出来事は博士に大きな影響を与えたので、キリストに人生を捧げるきっかけになったと述べています。ローリングズ博士は神学者でも牧師でもありませんが、蘇生した患者に関する所見を綴った偏見のない医師です。

 

多くの人が臨死体験をしたと主張していますが、どの話が本当であるかを確実に知る方法はありません。しかし、使徒パウロが第三の天について語ることを神が許され(第二コリント人への手紙12章)、殉教者ステパノが死ぬ前にイエスが天の父の右に立っているのを見たならば(使徒の働き7章)、今日もこの人生の先にあるものを垣間見ることが許されている人々がいるかもしれません。

 

しかし、私たちの信仰は、経験ではなく、神の御言葉に基づいていなければなりません。結局のところ、信念や生きた人生に関係なく、誰もが輝かしい光に迎えられ、平和な永遠へと導かれると私たちに信じさせようとする人たちがいます。しかし、これは聖書とは一致しません。イエスは愛と真理の両方を体現されました。そして、弟子たちがそれらを証言することをお許しになりました。

 

キリストの再臨を待ち望む間、クリスチャンとしての私たちの仕事は、人々が永遠に神から離れて地獄と呼ばれる場所に送られることがないように、サタンの支配から人々を救うことです。すべての人は、人々が滅びることを望まない神から深く愛されていますが、神は人々が悔い改めることを望まれています(第二ペテロの手紙3章9節)。しかし、そうでない場合はどうなるでしょうか?もし、人々がキリストを知らずに死んだらどうなるでしょうか?もし、神の愛と福音のメッセージに応答しないとしたら?キリストの再臨の時、イエスは羊(信じる者たち)を山羊(信じない者たち)と分けられます。以下の聖句で、イエスは二度、刑罰は永遠であると言われました。

 

それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイの福音書25章41〜46節、強調は筆者によるもの)

 

主はしばしば地獄について語られ、天国、地獄、永遠の刑罰、そして永遠の報酬についていくつかのたとえ話をされました。イエスが弟子たちにそのような話をすることが重要であったなら、私たちは永遠に関する論題や、天国と地獄についての聖書の教えに、真剣に注意を払う必要があります。サタンは「欺く者」であり、「嘘の父」であり、「光の天使を装う者」と呼ばれていることも忘れてはなりません。臨死体験の話には、神の栄光を表すものもあり、それは真実である可能性もあります。しかし、私たちの信仰は神と神の御言葉にかかっています。サタンが神の栄光を現すはずの本当の報告を偽造し、すべての道が神に通じていると信じ込ませようとするのは当然のことです。

 

死とは消滅した状態なのか?

 

地獄とは、神の無償の罪の赦しを拒む者が消滅する場所だと言う人もいます。「消滅(英語でannihilation)」という言葉は、「完全な破滅、または存在しないようにすること。徹底的に破壊すること」を意味します。しかし、上の箇所(マタイの福音書25章41〜46節:「永遠の」を指す下線部)で、イエスは同じギリシャ語を使って、イエスに従う者たちのこの上ない喜びを表現しています。そのギリシャ語は「永遠の、不変の。永遠のいのちに言及する場合、それは神のものであり、したがって、時間の制限に影響されない命を意味する」aiōniosという言葉です。「消滅」という意味とは全く異なります。福音を拒み、罪を続ける人は、生涯の終わりに、永遠の刑罰を受けるということは、イエスの明確な教えです。

 

1922年から1953年までロシアの指導者だったヨシフ・スターリンの娘であるスヴェトラーナ・スターリンは、父親の死に際に付き添い、二度と死に瀕している神を信じない者の死を見届けることはしないだろうと言いました。彼女は、父親は地獄に落ちたと言ったのです。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」(ヘブル人への手紙10勝31節)。ヴォルテールは、フランスのシャルル9世、デイヴィッド・ヒューム、トマス・ペインと同様、苦悶の叫び声を上げながら死んだと言われています。神を知っている人のことについて言及の一例として、C.M. ウォードは、「キリスト教徒は、死の床でその信仰を撤回したことは今まで知られていない」と語りました。

 

  • なぜ愛なる神が人々を地獄へ送らなければならないのでしょう?どれだけ悪い人々が地獄へ行くのでしょうか。そこに何か基準はあるのでしょうか。

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネの福音書3章16〜18節)

 

創造主である神は、救いの道を確立されました。たとえると、この世界の状況は全人類が同じ船に乗っているようなものです。そして、私たちは皆、神が定めている最高規範に達していません。誰も罪を犯したことがないと言うことはできません。一度だけ罪を犯したことがあるなら、それはあなたを罪人にするのに十分なのです。私たちは皆、同じ病に苦しんでいます。つまり、罪は私たちを神から永遠に隔てるものなのです。イエスの兄弟であり、のちに信者となったヤコブはこのように述べています。「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです(ヤコブの手紙2章10節)」。神があなたを天国へと導くための別の方法があったとしたら、彼の息子を送り、残酷で激しい痛みを伴う死を遂げさせる以外の方法を取られたと思いませんか?神は人に自由意志という贈り物を与えてくださいましたが、神の義は反抗する者を罰することを要求します。聖なる神は、そのきよさのゆえに、罪に対して厳しくあられます。「あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう(ハバクク書1章13節)」。そして、神は罪の悔い改めを拒む、反抗者の選択をも重んじられます。

 

人に対する愛ゆえに、神は救済計画を始められました。神の御子イエスは人間の形をとり、罪を犯した人の身代わりとなって、己にその刑罰を課しました。そのようにして、神の義の要求は満たされ、人生をイエスに明け渡して彼に従って歩むすべての人を、神は愛をもって手を差し伸べて救うことができるのです。私たちが悔い改めてキリストを受け入れるとき、神の霊は私たちにキリストのために生きる力を与えてくださいます。私たちは他の人たちに対する答えも持っており、聖霊は人類に対する神の救済計画−福音−について人々に話す力と大胆さを与えてくれます。神の言葉の真実について話すとき、私たちはサタンの王国に損害を与え、大切な人々をその支配から解放します。今日、教会はサタンからの攻撃を受けていますが、神の王国に対して敵が建て上げてきたあらゆる要塞を打ち砕きつつあります。ハデス(地獄)の門は教会に打ち勝つことはできません(マタイの福音書16章18節)。しかし、地獄に行く者とは誰のことでしょう?

 

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録21章8節)

 

上記の聖句は、臆病な人、嘘つきの人、キリストを信じない人は、2回目の復活の際に、火と硫黄の燃える池に送られると教えています。池が文字通り火の池なのか、それとも火の池のようなものがある状態を表す比喩的な描写なのかはわかりません。別にその詳細を知ることに興味はありませんが!いずれにせよ、火の池についてわかっていることは、そこが苦しみと破壊に満ちた場所であることです。聖書はまた、地獄を永遠の暗闇の場所として説明しています(ユダの手紙1章13節)。私たちは、光に圧倒されるか、闇に圧倒されるかを選択できます。私たちは永遠にどちらか一方を受け入れるのです。

 

光と闇の性質を考えてみてください。光は健康と幸福を促進します。植物が生きていくためには光が必要です。光は物事を明るみに出し、生命あるものに栄養を与え、その成長を促進します。生き生きとさせるのです。その一方、闇は物事を覆い隠します。光がない状態です。心理学者は、暗闇が長く続くと、うつ病やその他の病気を引き起こす可能性があると述べています。人が光を失って生きることは健康的ではありません。火の池は闇の場所にあるのです。

 

今日では、そのような暗闇の場所について話すことをためらいがちです。一体どのようなことをした人がそこに行くのでしょうか?質問させてください。人殺しになるには何人を殺害する必要がありますか?・・・一人です!嘘つきになるには何回嘘をつく必要がありますか?・・・一回です!罪人になるには何度罪を犯す必要がありますか?・・・一回です!私たちは皆、救い主を必要としています。罪とその罰からあなたを救うことができるのはイエス以外にありません。

 

神への道とはまず初めに、私たちに救い主が必要であることを知ることです。使徒パウロは次のように述べました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。・・・善を行う者はいない。だれ一人いない(ローマ人への手紙3章10〜12節)」。パウロは、良い行いを継続することによって義と認められる人はいないと言っています(ローマ人への手紙3章20節)。彼は、律法とは別の義が知らされたと述べています。つまり、あなたの代わりに、キリストが身代わりとなる死を遂げたことです。この義は、あなたが罪を悔い改め(罪から離れ、キリストに立ち返ること)、あなたの人生の王座に座されるイエス・キリストの人格を受け入れるときに与えられます。神の義の賜物は、苦しみの場所から脱する唯一の方法です(使徒の働き4章12節)。これを行うとき、あなたの名前はいのちの書(黙示録21章27節)に書き込まれます。この書は、人生をキリストに引き渡し、キリストを受け入れて罪を赦されたすべての人の記録です。一方、この書に名前がない人は火の池で苦しめられます。

 

それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20章14〜14)

 

その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る。獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。」(ヨハネの黙示録14章10〜11節)

 

救われていない者は光によって裁かれる

 

私はそのおぞましい場所−地獄でも異なる程度の刑罰があると考えています。米国の牧師であり作家であるチャック・スィンドルは地獄での刑罰の程度について以下のように述べています。

 

他の人ほど神の介入を受けない人も少なからずいるでしょう。それは本当で、永遠の罰には程度があると私は信じています。石を拾って、私を石打ちにする前に、イエスの言葉をよく見てください。

 

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカの福音書12章47〜48節)

 

キリストを抜きにして天国で永遠を過ごせる人はいません。しかし、キリストを知らない人々がほとんどキリストについて聞いたことがなかったために、神が彼らをどのように扱うかについての詳細は、罰の程度の考え方によって答えられるかもしれません。しかし、天国が彼らの家ではないことは確かです。

 

2)人が地上で与える影響の程度は、その人の永遠になにかしらの影響を与えると思いますか?

 

影響力が大きいほど、その影響力に対する報告義務と責任が大きくなります。私たちの若者の手本となるべきであるメディアに出演している人々がいますが、彼らの多くは不道徳な生活を送っています。彼らは多くの人に影響を与えるため、より厳しく裁かれることでしょう。他の人に影響を与える立場に急いで成り上がろうとしないでください。イエスは、私たちが自分の目から梁を取り除くように言われました。そうすれば、他の人々の目からちりを取り除くことができます(マタイの福音書7章3〜5節)。クリスチャンである私たち一人一人は、特に近所や職場でクリスチャンとして知られている場合、すでに影響力のある立場にあります。人々は、あなたの生き方を見ています。彼らの永遠は、あなたの言葉や行動から溢れるキリストのメッセージに対する彼らの応答にかかっています。私たちは皆、ある程度は教えますが、すべての人が教師ではありません。教師にとって、神に栄光を帰する人生を送ることは非常に重要です。

 

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3章節)

 

審判の時、クリスチャンの指導者たちは、彼らが浴びた脚光やその影響的な立場ゆえに、より厳しく裁かれることでしょう。キリストを知らなかった者たちさえ、彼らの影響が大きくなればなるほど、説明責任の程度が大きくなります。義とされた者たちに異なる程度の報酬があることは理にかなっており、地獄へ行く者たちにもそれは同様なのです。

 

さて、イエスがある二人の死者と彼らの居場所について語られた聖書箇所を読んでみましょう。主はこれがたとえ話であるとは言われていません。また、その二人のうちの一人がたとえ話にはあまり見られない名前であることは重要です。ラザロという名前は物乞いを指す名でした。イエスが実際にあった話をされていると私は考えます。

 

金持ちの男とラザロ

 

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカの福音書16章19〜31節)

 

この聖句に取り掛かるまえに、聖書がこの二人が死んだ時に、彼らの霊と魂の行き先に関して何と教えているのか調べることは助けになるかもしれません。「よみ(地獄)」と『アブラハムの懐』は二人が気づくといた二つの異なる場所を表しています。ギリシャ語のhades(旧約聖書ではsheolが使われている)は「よみ」と訳されます。この言葉は新約聖書で10回使われています。イエスは、御自身のからだが墓の中にある間、「地の中」にいると言われました。

 

ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイの福音書12章40節)

 

キリストが死んだ時、キリストがかつて言われた場所、「地の中」に行かれました。使徒パウロもまた、旅立った霊たちの居場所が「地の下」にあると書いています。「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、(ピリピ人への手紙2章10節)」。地獄は一般的に霊的な、物質的ではない、二つの区画に仕切られている場所と信じられています。一つの区画は「信仰の父」にちなみ、「アブラハム側」(NIV)や「アブラハムの懐」(KJV)と呼ばれ、人の心への親密さを象徴しています。義とされた者たち側を表す他の言葉として「パラダイス」が使われます。イエスはご自身の隣で十字架刑に服した、イエスを信じた強盗に話しかけられた時、この言葉を使われました。「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』(ルカの福音書23章43節)。」このパラダイスとは「天国」を指してはいないでしょう。なぜなら、イエスが復活された日にイエスはマグダラのマリアに「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです(ヨハネの福音書20章17節)」と言われたからです。これらの聖書箇所はまた、イエスが死んだ時、イエスがサタンから「死とよみの鍵」をもぎ取ったハデスへとその霊が下られたことを証言しています(ヨハネの黙示録1勝18節)。それからイエスは地の下にあるパラダイスへと渡られ、神に信頼した者たちが地の下に留められていたパラダイス−アブラハムの懐と呼ばれる場所−から彼らを解放されました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(第一コリント人への手紙15章20節)」。イエスこそが死に勝利し、十字架上で成された犠牲的な死の勝利によって天国へと行くことができた最初の人でした。

 

マタイはキリストが死なれた時、ある現象が起きたことを私たちに伝えています。彼はその日に大きな地震があったこと、そして神殿の幕が上から下へ二つに裂かれたと書いています。そして、他にも実に興味深い出来事を記しています。

 

墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。(マタイの福音書27章52〜53節)

 

これらの現象を目撃することはどのような感覚であったか想像できますか?それは、キリストの十字架上での無罪の死により、これらの「聖なる人々」がキリストの犠牲的な死の際にハデスにある義の側から解放されたかのように思えます。聖書はこれらの聖なる人々がどれほどの期間、都にいたのか、また彼らが誰であったかを教えていません。情報が足りないので独断的になるべきではありませんが、マグダラのマリアと会われた後にイエスがアブラハムの懐やパラダイスと呼ばれる場所に留められていた聖なる人々を天へと昇らせられた可能性は否む事ができません。

 

使徒パウロはエペソ人への手紙にて、この見解を裏付けています。彼はキリストが王座に座るために昇天される前に、地の低い所に降られたと書いています。

 

彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。(エペソ人への手紙4章8〜10節)

 

キリストの死、葬い、そして復活からは、クリスチャンが死ぬ時には地の下に下ることはなく、主といつまでも共にいるために天国へと昇ることを私たちが理解することは必要不可欠です。キリストが捕虜を連れて行くとは(8節)おそらく、アブラハム側に留められていた信じる者たちが、キリストが昇られた時に一緒に天国へ連れて行かれたことを言及しているのでしょう。私たちはキリストの復活ゆえに、信じる者たちが死ぬ時には、すぐに主とともにされるとパウロは述べています。

 

しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。(ピリピ人への手紙1章22〜24節)

 

私たちが学んでいるルカの福音書6章の御言葉は、イエスが非常に異なる二人の運命と彼らの死後の行き先に関する実話を語られていた時点で、ハデスで何が起きていたかを示唆するものでした。この箇所では、ラザロとアブラハムの名が触れられており、ある写本(「ウルガタ聖書」というラテン語聖書)ではDive(金持ちを指すラテン語)という名が金持ちの男の名前として使われています。

 

19〜21節−地上での二人の状況

 

3)彼らが地上にいた間、金持ちの男とラザロはどのように描かれていますか?彼らが死んだ時、この二人の男の人生はどのように祝われたでしょうか?

 

キリストが地上にいた時代、紫色は普通に入手できるようなものではありませんでした。この金持ちの男は当時のトップファッションデザイナーたちによるプラダやアルマーニのティル紫(またはロイヤルパープル)の衣服を身につけていたようです。この色は珍しい貝殻の粘膜から得られたものです。アリストテレスはその価値を黄金の10〜20倍と割り当てました。また、金持ちの男は「柔らかい亜麻布」も着ていました。柔らかい亜麻布を指すギリシャ語はbussosで、ムール貝から分泌される珍しい繊維のことです。エジプトの王ツタンカーメンのような王たちが、この高価な着物を身につけていました。さて、この金持ちの男は毎日贅沢に暮らしていました。最上の食べ物を食べ、最上のワインを飲み、そして彼の屋敷は町で一番の大邸宅だったのでしょう。この男が国中で羨まれる存在として知られていたと言っても、決して過言ではないでしょう。当時、彼は影響力のある有名人だったのです。

 

ラザロはその金持ちの家の門前または玄関で寝ていました。「寝ていた」と訳されるギリシャ語はballoです。それは力ずくで投げ捨てることを意味します。ラザロは乱暴に放り出されており、そこで彼は置き去りにされていたようで、命がゆっくりと衰退していきました。ラザロが投げ捨てられた門はその家の召使いたちがごみを捨てていた裏口で、そこに犬たちが集まってきて、ラザロの死にかけている体を舐めていた可能性が高いです。そして、彼の体ができものに覆われていたことから、ラザロが酷い病気を患っていたことは明白です。彼がどこかに行くことなく、捨てられた場所に留まり、金持ちの男の食卓から落ちる食べくずを物乞いしていたことからも、その病気が酷すぎたことを表しています。スコットランドの牧師であったウィリアム・バークレイは次のように述べました。

 

当時、ナイフ、フォークやナプキンはなかった。食べ物は手を使って食べられ、裕福な家では

 

パンで手を拭き(おそらく薄いピタパン)、それから捨てられた。ラザロは犬たちと同じように、その捨てられるパンを待っていた。

 

犬たちはラザロのできものを舐めており、彼が病気や空腹で衰弱しすぎて、追い払うことができなかったのかもしれません。ラザロが物乞いをしていたために金持ちの男が彼をそこに追い払ったのか、またはラザロの病の脅威から町の人たちが彼をそこへ追い払ったのかは分かりません。いずれにせよ、ラザロは自分自身を救える立場にはなかったようです。彼はいくらか食べ物のくずでさえ食べたいと思いましたが、彼はそのために犬たちと競わなければなりませんでした。当時、ほとんどの犬は家で飼われているペットではありませんでした。

 

22〜26節:永遠の世界における二人の状況

 

ラザロの死んだ時、埋葬も葬式も行われませんでした。彼が生きている間に誰も彼の世話をした人がいなければ、彼が死んだ時も同様だったでしょう。聖書はその論題−死−について沈黙のうちにも大声で語っています。では、ラザロと金持ちを比較してみてください。聖書は金持ちが埋葬されたことを明確に伝えています。彼の葬式は、公の追悼を伴う豪華な式典だったのでしょう。おそらく彼の遺体は、金持ちだけが購入できるような、エルサレムのオリーブ山にある墓の中でも名誉ある場所を与えられていたのかもしれません。

 

金持ちの埋葬地への葬列には、当時の慣例のために雇われた専門の哀悼者が多く必要でした。もちろん、実際金持ちは死んでから地上でそのような葬式が行われていることを気にもとめませんでした。彼は自分が地獄にいることに非常に驚いていました。ラザロが金持ちの邸宅の門で寝ていた時は、ラザロの名前を誰も知らなかったでしょうが、誰もが金持ちの名前を知っていました。しかし、死の扉の向こう側で立場は逆転します。そこでは、誰もがラザロの名前を知っています。しかし、金持ちの男については、誰も彼が誰なのか知りません。つまり、彼の名前が知られておらず、突然、金持ちは何者でもなくなってしまったのです。死が魂や霊の消滅であると信じている多くの人が、死の扉から永遠に入るとき、自分の意識があることに気付くのは、なんとも悲しいことです。

 

4)死が訪れると、本当のあなた、つまりあなたの霊は、何も体験せず、意識がない魂の眠りに入るだろうと言う人もいます。この聖書箇所で、それと異なることを教えてくれるものは何だと思いますか?Bottom of Form

 

金持ちが最初に経験することの1つは、純然たる苦痛です(23節)。使われているギリシャ語はbasanosで、「底に行く、最低の拷問または苦痛」を意味します。このギリシャ語の言葉は、おそらく私たちが先ほど話した内容を説明するために使われています。つまり、地獄にはさまざまな程度の苦しみがあり、最も深い苦しみは、この金持ちが経験している(現在時制であり、彼は「今日も」そこにいるという意味で)ものでした。彼の舌は燃えていました。その舌を冷やすために水が必要でした。彼は肉体を持っていませんが、触覚を有しており、ひどい痛みを感じています。そして、視覚と認識の感覚も持っています。なぜなら、彼は広大な裂け目の向こう側にラザロと彼のそばにアブラハムを見たからです。パラダイスを見ながら、もうすでに手遅れで、パラダイスへは一瞬たりとも行くことができないと知るのは、どれほど辛いことでしょう。

 

このことの後に、黙示録20:11〜15にある白い御座の裁きで、死とハデスは火の池に投げ込まれ、そこには永遠の暗闇があることが読み取れます。その時点から、元金持ちの男は何も見えなくなるでしょう。彼には話すという感覚があることがわかります。彼はアブラハムに呼びかけ、彼の痛みを伝えます。彼はこの状況にいたってもラザロに水をもらったり、世にいる自分の兄弟たちを訪ねたりするように命じることができると思っているので、ラザロに対する態度に変化はないようです。アブラハムに対する金持ちの訴えは、やや巧妙です。彼はアブラハムを「父アブラハム」と呼び、彼が神を信じる国に生まれたために、アブラハムと関係があるとほのめかしています。金持ちはなんという思い違いをしていたことでしょう!今日のキリスト教国に生まれた多くの人々にどれほど似ていることでしょうか。多くの人が自分自身をクリスチャンと呼んでいますが、彼ら全員がキリストを通して神との関係を持っているわけではありません。金持ちにはまだ聴覚もあったようです。彼はアブラハムが彼と話しているのを聞くことができます。

 

アブラハムは金持ちに答え、永遠に彼の心に残る言葉を語ります。それは真実に満ちた力強い言葉でしたが、彼に希望は残されませんでした。彼は地上での人生と、悔い改めて自分の人生を神に捧げるために彼が逃したすべての機会を思い出す(25節)でしょう。それは、なんと苦しいことでしょう!そこでの私たちの思考は明快です。私たちの見る・聞く・考えるといった能力は、永遠ではさらに研ぎ澄まされているかもしれません。地上での行為を正すには手遅れであるために何もする事ができず、想像を絶する後悔があることでしょう。元金持ちの男には、この状況から脱することができるように祈ってくれる人がいません。死後に自分の立場を変えることができると信じさせるのはサタンの嘘です。金持ちは、彼がハデスに留められており、彼とアブラハムのいる場所を隔てた裂け目が永遠にあるので、両方を行き来する事ができる人は誰もいないと言い渡されました(26節)。死があなたを見つけるところでは、永遠があなたを縛ります。聖書にあるように、煉獄も、輪廻も、救済の機会もありません。あなたの永遠の運命を変える時は、手遅れになる前、つまり死ぬ前です。

 

金持ちになるのは罪ですか?貧乏人は貧乏だから天国に行けるのですか?そうでない場合、金持ちを地獄に送った罪とは何ですか?金持ちが犯した罪はたくさんありますが、主な罪は、神がいなくても十分に満足していたことです。彼の人生に神は必要なく、自分の喜びと慰め以外には何の注意も払いませんでした。彼はラザロに気付かず、気にも留めていなかった可能性があり、それは確かに彼に対する非難を強めたことでしょう。ラザロを助けることができる立場にありましたが、代わりに彼を苦しませ、死に至らしめました。彼が贅沢な生活に浸っている間、ラザロが苦痛に浸ることはまったく正常で自然なことだと考えていたようです。空腹で苦しんでいる同胞の男を見て、何もしませんでした。ラザロは、地上の生活は神なしでは満たされず、必要を感じて神を求め、神は憐れみ深く、恵み深い方であることに気づいたのだと思います。その一方、金持ちはまったく神の必要性を感じていなかったことでしょう。二人とも、あなたや私と同じ立場でこの世に生まれてきました。パウロはエペソの教会に宛てた手紙の中で、すべての人の立場について次のように述べています。

 

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(エペソ人への手紙2勝12節)

 

私たちが地上で生きている間、神は神の家へと続く道を探す機会を与えてくれます。これは、この地上のすべての人の普遍的な必要性で、「神を見つける」というものです。死後、神は私たちが人生で行った選択に栄誉を授けてくださいます。地上で神と共に生きることを選んだ場合、神は私たちの永遠に対する願いを叶えてくださいます。もし、神や永遠について考えずに生きているなら、神の恵みをまだ体験できるうちに、今、神に呼びかけてください。なぜそれを先延ばしにするのですか?間違いなく、あなたの霊的な敵である悪魔は、このメッセージを受け取ることを先延ばしにさせようとしますが、キリストは両手を広げてあなたを待っています。

 

27〜31節:まだ地上で生きている者たちのための嘆願

 

なぜ元金持ちの男はまだ地上にいる彼の兄弟たちのことを懸念していたのでしょうか?彼は地獄で二度祈りました。初めの祈りは水のため、二つ目の祈りは彼の兄弟たちのためでした。しかし、どちらの祈りも拒絶されてしまいました。なぜなら、金持ちの男は彼の地上での責務にたいして不誠実であったからです。彼の責務は周りにいた人たちに対するものであり、それは特に彼の兄弟たちに対するものでした。金持ちは兄弟たちの前に、地上で最も堕落したもの、つまり神がなくても満足した人間の例を模範として示しました。地獄にいる今この時、彼は兄弟たちが、自分の模範に従って生きていたことを思い出しました。つまり、神なしで満足した生活を送っているということです。地獄にいる人の苦しみをさらに増し加えるのは、あなたが地獄に連れて行くのを手伝ったような人たちと永遠に閉じこめられることです。すでに述べたように、私たちは皆、良くも悪くも他人に影響を与えます。兄弟、姉妹、息子、娘、近親者など、私たちを模範とする人々に忠実でありましょう。私たちはキリストのために心を尽くして生きなければなりません。他の人たちの命はそれにかかっているのです。

 

金持ちの兄弟たちが使者を拒まれた根拠とは何でしたか?元金持ちの男は神の御言葉を持っていました(その時代には、モーセと預言者の書がありました)。必要な証人はそれだけなのです。神が嘘をつくことなどあり得ないので(ヘブライ人への手紙6章18節)、神の御言葉を信じなければ、たとえ人が死からよみがえったとしても信じません。神の書かれた御言葉は、永遠のいのちに備えるために吟味できる最も重要な証拠です。人の墓の後にある永遠の命にとってとても安全とは言えない行為ですが、その御言葉は見逃されてきています。

 

この聖書箇所が教えている主な教訓とは何でしょうか?

 

  • 最も重要な教訓は、主を求めるときは今であり、それを先延ばしにしないこと。

 

  • 次に、地上で感じることはないが、永遠に影響を与える私たちの行為の結果があること。

 

  • 地上では思っている以上に他の人々に与える影響があること。

 

  • 神の御言葉は、私たちが永遠の生活に備えるために最も重要な証拠であること。

 

  • この世での経済状況に関わらず、もしキリストの救いをいただいていないなら、神と生きる永遠もないということ(第一ヨハネの手紙5章12節)。

 

祈り

 

お父さん、御言葉によって、私たちが永遠に備えるために何をする必要があるかはっきり教えてくださり、ありがとうございます。永遠の運命に関して確証がない人々がキリストに永遠のいのちを見つけるまであなたに祈ることができますように。私たちのうち誰もあなた無しの人生に満足することがありませんように。キリストを知らない人々に働きかけることができるように助けてください。そして、彼らを暗闇の王国から勝ち取り、あなたの光の王国へと一緒に連れて行くことができますように。アーメン。

 

キース・トーマスより翻案

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