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12. The Seven Sayings from the Cross
12. 十字架から語られた7つの言葉
ヨハネの福音書19章16〜30節
ヴィア・ドロローサ、十字架の道
ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」(ヨハネの福音書19章16~22節)
総督ピラトがイエスに判決を下してすぐ、ローマ兵たちがイエスを連行しました。おそらく主イエスはローマ兵の兵舎へ連れて行かれ、4人のローマ兵からなる分隊がイエスを磔にする任務を命じられたと考えられます。十字架の横梁がイエスに背負わされた時のことをマタイは次のように書きました。「十字架につけるために連れ出した(マタイの福音書27章31節)」。死刑囚が自ら処刑場に向かうことは珍しく、通常は激しい抵抗を示しながらも強制的に連れて行かれました。イエスはそうではなかったのです。繰り返しますが、彼は聖書の預言を成就していたのです。「屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない(イザヤ書53章7節)」。イエスは抵抗せず、むしろ自ら十字架の道に従われたのです。
大抵の場合、磔にされる死刑囚は、エルサレムを出入りする大勢の人々が見ることができる城壁の外まで市中引き回しにされました。初代教会の教父たちは、イサクがその父アブラハム(創世記22章6節)によって生贄とされるための薪を運んでいたことが、イエスがご自分の十字架を運ばれた姿の雛形のように感じました。十字架刑に処される一人一人に4人の兵士からなる分隊、「クォータニオン」があてがわれ、イエスの横にもついていたことでしょう。先頭を進む兵士は十字架刑の罪状を掲げていました。この罪状は目にする者たちに恐怖を与え、同じような罪を犯させないようにしました。
ローマ人が処罰として十字架刑を利用した理由は4つありました。(1)死刑囚を非常に苦しめる刑罰だったから(2)じっくりと時間をかけて死に至らしめることができるから(3)大勢が死刑囚の苦しむ姿を目にすることができるから(4)屈辱的な刑罰なので犯罪や反乱に対する抑止効果があるから。
ピラトは罪状にアラム語、ラテン語、そしてギリシャ語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書くように指示しました。ユダヤの長老たちはこの内容に遺憾の意を示し、イエスが自らをユダヤ人の王と「自称した」と書き換えるように求めました。しかし、ピラトは次のように答えました。「私が書いたものは、書いたままにしておけ(ヨハネの福音書19章22節)」。それはまるで、神がピラトを通して真理を語られたかのようであり、彼はその罪状を変更することを許しませんでした。死刑囚の罪状が書かれる小さな板は、十字架にかけられた死刑囚の頭上に釘で打ち込まれました。しかしながら、イエスには何も罪がありませんでした。ピラト自身もキリストに何の罪も認められないと宣言しましたが、もしかすると、ユダヤ人たちを嘲るために、惨たらしい悪ふざけとしてこの罪状をイエスの頭上に置いたのかもしれません。ピラトの動機はわかりませんが、結果的にイエスの主権が十字架から宣言されたのです。
「どくろ」という場所
ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。(マタイの福音書27章33~34節)
十字架刑の場所も重要です。そこは城壁の外にあり、人々が通る道の近くにあったようです。イエスは通行人たちが罵る声を聞かれました。もし皆さんがエルサレムを訪れる機会があれば、「ゴルゴタ」や「カルバリー」(「どくろという場所」という意)というイエスが死なれたとされる場所には複数候補があることがわかります(カトリック教会の聖墳墓教会と福音派の園の墓)。それぞれにイエスが処刑された場所であるとされる理由があり、その名前の由来を示唆するものもあります。名前の由来として、聖墳墓教会ではアダムの頭蓋骨がその土地に葬られたという伝説があります。また、園の墓の土地はまるで「どくろ」のような形をしていたという理由があります。そして「ゴルゴタ」と呼ばれる3つ目の説として、その土地が十字架刑に処せられた死刑囚たちの頭蓋骨の山があった場所だと言われているからです。しかしこの説は、ユダヤの律法が死体をさらしたまま腐らせることを禁じている点で怪しいのですが。
ローマの十字架刑の方法はしばしば、数日間続き、人々への見せしめのためにその死体を十字架上で腐らせました。しかしながら、聖書は木にかけられた者は日没までに十字架から下ろされなければならないとしていました(申命記21章22〜23節)。その忌まわしい名前の由来がなんであれ、その場所はさみしい場所であり、天の王が私たちのために自らを捧げ、罰を受けるために用意された場所、共同体から除外された場所でした(ヘブライ13章12〜13節)。興味深い点として、油注がれたイスラエルの大祭司はイスラエルの罪のために、宿営の外でいけにえを完全に燃やし尽くさなければなりませんでした(レビ記4章21節)。ここでも街の外でのキリストの犠牲的ないけにえの型を見ることができます。
約15cmもの長さの釘をイエスの手足に打ち込む前に、兵士たちはイエスにある飲み物を与えました。マタイ27章34節は、イエスが「にがみ」を混ぜた酸っぱいぶどう酒を与えられたと書いています。また、マルコは、苦い飲み物はミルラという「没薬」(マルコ15章23節)で、弱い麻酔薬であったと語っています。イエスはそれを口にしたとき、それを吐き出しました。
なぜイエスはそれを吐き出したと思いますか?
この出来事の何百年も前に、預言者たちは人を神との関係に立ち返らせるために、すべてのことを成就される苦しむ神のしもべについて預言書に記しました。また、詩篇69篇(ダビデ王が作者であると考える人もいますが)には、メシアが「苦いもの(没薬、新改訳では毒と訳される)」が混ざった、酸っぱいぶどう酒(酢)を飲まされると預言されていました。
あなたはよくご存じです。私への嘲りと恥と恥辱とを。私に敵する者はみなあなたの御前にいます。嘲りが私の心を打ち砕き私はひどく病んでいます。私が同情を求めてもそれはなく慰める者たちを求めても見つけられません。彼らは私の食べ物の代わりに毒を与え私が渇いたときには酢を飲ませました。(詩篇69篇19~21節)
キリストが来られた目的とは、罪を犯した人類の代わりに十字架で死ぬことでした。彼はこの重要なときに自分の感覚を鈍らせることを望んでいませんでした。キリストはすべての人のために死を、すなわち完全な罰を味わうために来られたのです(ヘブル2章9節)。イエスが軽い麻酔薬である没薬を拒否したとき(マルコ15章23節)、兵士たちはイエスを十字架の上に置き、15cmの釘で手足を突き刺しました。古典的な画家の多くは、イエスが手のひらに釘付けにされたと考えていましたが、ローマの歴史的記述によると、釘が手首の小さな骨(橈骨と尺骨)に打ち込まれていたことがわかります。次に、イエスが釘付けにされた十字架の横梁が持ち上げられ、十字架の縦の部分に取り付けました。そして、ローマ兵はイエスの両足を合わせて少し曲げてから、アキレス腱に1本の釘を刺通しました。
場合によっては、4つの釘が使用され、両足が別々に釘付けにされたという証拠もいくつかあります。次に、ローマ兵は足の下にセデュキュラと呼ばれる木片を置き、死刑囚が足を痛々しく押し下げ、自分の肺を空気で満たすことができるようにしました。全体重が釘にかかっている状態で、手首が正中神経に圧力をかけているので、耐えられないような痛みだったことでしょう。また、死刑囚がこのように呼吸ができることで、死までの苦痛が長引きました。
さて、次にイエスの死のタイミングを考えてみましょう。過越の祭りの間にイエスが死なれたことは偶然ではありませんでした。処刑場から100mほど離れた神殿周辺では、イエスが死んだのと同時刻に、イスラエル人たちが過ぎ越しの晩餐のために、エルサレムのいたるところで子羊を屠殺していたという事実には胸が痛みます。歴史家のヨセフスは、西暦66年 の過越の祭りのために、25万6千頭以上の子羊が犠牲になったと記録しました。神の子羊が真の過越の祭りのために十字架につけられていた時、すべての祭司はこのおびただしい数の羊を屠るのに忙しくしていました。その晩、子羊は火で焼かれ、すべて食されました(出エジプト記12章8〜10節)。私たちもまた、神の子羊を私たちの人生に取り入れ(ヨハネ1章12節)、神の子羊のいのちに霊的に預かります(ヨハネ6章53節)。
ダビデ王もまた預言者であり、これらの出来事について何百年も前から詩篇22篇で預言していました。ある人たちはキリストが十字架上でこの詩篇22篇全体を話されたと考えています。イエスがその一部をもって語られたことは確かです。以下は詩篇22篇からの引用です。
わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。(詩篇22篇1,6〜8、12~18節)
どのようにこのダビデの預言的詩篇はキリストの十字架について語っていますか?何か似ている点はありますか?
恥を増し加えるために死刑囚が全裸にされることは当時普通でしたが、ユダヤ的な敏感さゆえに腰巻き布は許されていた可能性があります。
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19章23~30節)
イエスをゴルゴタの丘に連れて行った4人の兵士は、死刑囚の服と靴を取ることを許可されていましたが、彼らはイエスの縫い目のない下着を景品に、サイコロゲームのような「くじびき」を行いました(ヨハネ19章23節)。その下着を引き裂いて分割するのはもったいないので、兵たちはサイコロを投じたのでした。この衣服の分割とキリストの縫い目のない下着のために行われるくじ引きは、ダビデが何百年も前に預言した内容と同じでした(詩篇22篇18節)。ヨハネは兵士たちがくじ引きをした縫い目のない下着に私たちの注意を向けます。もしかしたら、ヨハネは縫い目のない大祭司の祭服のことを考えていたのかもしれません。当時の歴史家であるヨセフスは、大祭司の衣服について次のように書いています。「さて、この衣服は二枚で構成されておらず、裏と表を縫い合わせていなかったが、首に開口部があるように織られた長い衣服であった」。私たちの大祭司であるキリストは、贖いの場所でこの縫い目のない下着を着ていました。
十字架上のキリストが語られた7つの言葉
さて、ここから私たちは十字架上でキリストが語られた最後の7つの言葉について考えていきます。イエスは両側にいた他の二人の囚人と共に十字架につけられました。あたかもイエスがその中でも最も極悪な死刑囚であるかのように真ん中に十字架が配置されたのです。真ん中の十字架では普通、主犯が処刑されました。繰り返しますが、何百年も前に書かれた預言がまたもや成就しました。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ書53章12節)
上の預言が語るように、十字架にかけられたイエスは酷い苦痛の只中も、イエスを見に集まった群衆のために祈り、とりなしておられたのです。
1つ目の言葉:
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
(ルカの福音書23章34節)
この御言葉に表されている私たちへの哀れみと恵みはなんと美しいことでしょうか!もし神の愛と憐れみを疑ったことがあるなら、これらの御言葉を覚えるべきです。神の罪なき子羊がその御からだによって私たちの罪を負い、取り除いてくださったのです。「私たちのすべての背きを赦し、私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ人への手紙2章13~14節)」。
イエスは足に刺さった釘を起点に、腰元の板の助けを借りて、やっと呼吸することができました。呼吸するために体を持ち上げる時、鞭によってできた背中の傷は、粗い木の十字架によって更に傷つきました。あらゆる角度から、イエスの傷が見えました。彼の背中や体の大部分は血の塊でした。茨の冠で覆われた頭からは血が滴り落ちていました。血が彼の手と足から滴り落ち、間もなく兵士が槍でイエスの脇腹を刺しますが、その傷口からは血が出て来ました(ヨハネ19章34節)。
イエスを批判する者たちが彼の周りに集まり、のろいや軽蔑の言葉を投げかけるまで、そう長くはかかりませんでした。
通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイの福音書27章39~43節)
繰り返しになりますが、これは神が預言者ダビデ王を通して預言されたことでした。つまり、ダビデの子孫の1人が王になりましたが、人々から軽蔑され、蔑まれました。これらの預言書は、その出来事が起こる何百年も前にそれを言及する聖書の御言葉の信ぴょう性を証明し、その預言が成就したときに、私たちが聖書の真理を悟り、神とそのメシアであるイエスに信仰を置くことができるようにするのです。ダビデが書いた、キリストを軽蔑する人々に関する預言は次のとおりです。
私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。(詩篇22篇16節)
2つ目の言葉:
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
イエスと共に十字架にかけられた二人の死刑囚のうち一人は、他の人々と同じようにイエスを罵りました。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23章39~43節)
主イエスの人生は人類に分断をもたらしました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです(マタイの福音書12章30節)」。私たちはそれぞれ、その二人の死刑囚の一人のようです。私たちは皆、死ぬときにどちらかを選択する必要があります。キリストの死に価値を見出さず、罪の中で死ぬ人もいます。一方、他の人々はその日のキリストの贖いの業を見て、十字架の苦しみは彼らのためであったと受け取るでしょう。十字架から逃れることはできません。私たちは皆、罪を犯し続けるか、キリストが身代わりとなって十字架で死なれたことを信じ信頼するか、どちらかの選択をしなければなりません。イエスは悔い改めた泥棒に、その日、楽園で一緒にいると言われました。多くの人は、悔い改めた泥棒に与えられたそのような恵みを理解することができません。なぜなら、彼は良い働きをせず、洗礼も受けていなかったからです。救いは、私たちが行った義のわざによってではなく、贈り物として信じる者に授けられることを思い出してください(テトス3章5節、エペソ2章8〜9節)。もし、すべての恵みの源である神に手を差し伸べたことがないのなら、今日、同じ神の賜物を求めて神に叫び求めましょう。
3つ目の言葉:
苦しい呼吸の間、イエスはまだ彼の愛する者たちのことを気にかけておられました。
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。(ヨハネの福音書19章26~27節)
イエスの宣教活動中、マリアの夫であるヨセフについて聖書では触れられていません。ヨセフはある時点で亡くなっていたと推測できます。マリアの世話をすることは、イエスが家族の長子であったためにイエスの責任でした。イエスは愛する弟子のヨハネに母親の世話をするように頼みました。イエスはマリアを、彼が最も信頼できると知っていた人に託しました。苦しみと激しい霊的戦いの瞬間でさえ、イエスは彼を悼む人々に何が待ち受けているかを心配し、この非常に実務的な細部を忘れませんでした。イエスがいなくなったとき、彼らがお互いに慰め合うようにと求められました。
ヨハネの福音書では触れられていませんが、マタイの福音書では、3時間ほど地上が大変な闇に覆われた出来事を記録しています。「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった(マタイの福音書27章45節)」。日食は長くても7分30秒ほどしか続かないので、この暗闇は日食によるものではありませんでした。預言者アモスがこの暗闇について預言していました。
「その日には、──神である主のことば──わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。」(アモス書8章9節)
4つ目の言葉:
十字架上でイエスは4つ目の言葉を叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マルコの福音書15章34節)」
なぜキリストは神に見捨てられたと感じたのでしょうか?
パウロはコリントの教会に宛てて、次のように書きました。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです(第二コリント人への手紙5章21節)」。十字架上で、イエスは世の罪を負わされました。彼は人類全体の罪の担い手になりました。聖書は、神は清すぎて悪を見ることはできないと教えています(ハバクク書1章13節)。イエスがあなたと私の罪をご自身の上に置かれたので、天の父はイエスから目をそらされました。ここで目をそらされたこと、それが十字架刑のなかで最も苦痛を感じた時でした。
トーマス・デイヴィスという中世の医者は、十字架刑が身体に与える影響について研究しました。
腕が疲れると、けいれんの大きな波が筋肉を駆け巡り、深く、執拗な、ズキズキする痛みで締め付けられる。これらのけいれんにより、自分を上に押し上げることができなくなる。両腕でぶらさがり、胸に自重がかかることで胸筋が麻痺し、横隔膜が機能しなくなる。空気を肺に吸い込むことはでるが、吐き出すことはできない。イエスは一呼吸するために、懸命に体を押し上げようとする。最後に、二酸化炭素が肺に蓄積し、血流とけいれんが部分的に治まる。散発的に、彼は自分自身を上に押し上げて息を吐き、生命を与える酸素を取り込むことができた…この無限の痛みの時間、身をよじり、関節を引き裂くけいれんの周期、断続的かつ部分的な窒息、粗い材木に対して上下に動くときに、組織の裂けた背中がこすられる灼熱の痛み。そして、その後、別の苦痛が始まる。心膜がゆっくりと血清で満たされ、心臓を圧迫し始めるときの胸の深い圧迫痛。組織液の喪失が臨界レベルに達し、圧迫された心臓が重くて濃厚で動きの鈍い血液を組織に送り込むのに苦労するのだ。拷問を受けた肺は、小さな空気の塊をあえぎながら必死に取り込もうと努める。著しく脱水した組織は、大量の刺激を脳に送る。
5つ目の言葉:
そしてイエスは5つ目の言葉を発されました。「わたしは渇く(ヨハネの福音書19章28節)」。この言葉はダビデ王によっても預言されたものでした。「私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます(詩篇22篇15節)」。この時ヨハネはローマ兵がヒソプの枝に付けた海綿を持ってきたと記録しています。
酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。(ヨハネの福音書19章29節)
なぜヨハネはヒソプに言及するのでしょうか?ヨハネの場合、その記録の細部には常に重要な意味があります。イスラエル人がエジプトの王ファラオの奴隷だったとき、神の救出の手段とは、清い完璧な子羊の血であり、その血は流され、戸口のもとの鉢に入れられました。イスラエルの民はヒソプを一束取り、それらを子羊の血に浸して、鴨居とそれと交わる二本の門柱に塗りました。
「さあ、羊をあなたがたの家族ごとに用意しなさい。そして過越のいけにえを屠りなさい。ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。主はエジプトを打つために行き巡られる。しかし、鴨居と二本の門柱にある血を見たら、主はその戸口を過ぎ越して、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことのないようにされる。(出エジプト記12章21~23節)」
神がその血をご覧になる時、神御自身がその家を守られ、天の使いたちがその家に入って滅ぼすことを許しませんでした(イザヤ書31章5節)。同じ方法で、新しい契約の血(エレミヤ31章31節)が私たちの霊的いのちに塗られ、今や私たちは主に属する者であり、サタン(ファラオ)とこの世(エジプト)から完全に救われたことを私たちは信じています。
6つ目の言葉:
「完了した。」(ヨハネの福音書19章30節)
その時が来て、3つの共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、イエスが大声で叫んだと語っていますが、彼らはイエスが何と叫んだかについては沈黙を守っています。このイエスの叫びについて唯一、ギリシャ語のtetelestaiという言葉を使ったのはヨハネだけでした。多くの英語訳が「完了した」と訳していますが、これは倦怠感のある叫びではなく、大きな勝利の叫びです。イエスはもう一度自分の体を押し上げて呼吸をし、全世界に聞こえるように叫びました。 「完了した!」(tetelestai)は、当時の一般的なギリシャ語で、会計の際に使われた単語でした。借金が支払われたときにも使われました。何かを終わらせる、完成する、達成する、終わらせるだけでなく、完全な状態や目標に到達させるという意味があります。また、税金や貢物を全額支払うことも意味します。この叫びは勝利の叫びでした!それは成し遂げられ、全額支払われ、神の民に借金は残っていませんでした。彼らは自由になりました!キリストが叫んだのも不思議ではありません。彼は、罪の借金が支払われたことを世界に知ってほしかったのです。神の裁きと義は今満たされたのでした(間違いを正し、和解するために)。
7つ目の言葉:
この叫びがゴルゴタの丘に響きわたった時、イエスのさいごの言葉、十字架からの7つ目の言葉が発せられました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカの福音書23章 36節)」。この言葉とともに、イエスは霊を神の御手にゆだねました。
今日、皆さんにお聞きしたいのですが、みなさんには「負債」がたくさんありますか?それは重いですか?メシアはあなたのために「負債」を支払ってくださいました。しかし、あなたがその申し入れと赦しを受け取るまでは、あなたは罪の中にとどまっており、取り除かれたはずだった重荷はその背中の上にのしかかっています。
1829年、フィラデルフィアのジョージ・ウィルソンという男性が米国郵政公社で強盗し、殺人を犯しました。ウィルソンは逮捕されて裁判にかけられ、有罪となり、絞首刑の判決を受けました。しかし、何人かの友人がその男性の代理で訴訟に参加し、ついにアンドリュー・ジャクソン大統領から恩赦を得ることができたのです。しかしながら、ウィルソンがその知らせを受けた時、彼は恩赦を拒否したのです!保安官は彼を処刑するのに気が進みませんでした−どうして赦された者を罰することなどできるでしょうか?そして、保安官はジャクソン大統領に控訴したのです。困惑した大統領は、判決を下すために合衆国最高裁判所に向かいました。マーシャル裁判長は、恩赦とは一枚の紙であり、その価値は恩赦を受けた本人が決めるものだという判決を下しました。死刑判決を受けた人が恩赦を拒否するとは考えにくいですが、拒否された場合、それは恩赦にはなりません。ウィルソンは絞首刑にされなければなりません。そのような訳で、恩赦が与えられていましたが、結局ウィルソンは処刑されました。あなたが死刑囚であったら、裁判長−−この宇宙を創造された神−−から与えられる完全な恩赦をどうするでしょうか?
兵士たちがキリストの服を手に入れようと、くじ引きをしたときの出来事を考察して、この章の学びを締めくくりたいと思います。イエスが彼らのためにも死のうとされていたその時に、彼らは実に無関心でした。彼らはゲームをしていて、イエスの苦しみについて無関心だったのです。彼らにとってはごく普通の日でした。彼らは自分たちの永遠の運命がかかっていることに気づいていませんでした。つまり、すべてがこの無償の愛の行為にかかっていることに気づいていませんでした。この図は、キリストに対する世界の無関心さを表しています。彼らはそれが問題ではないかのようにゲームをしていました。キリストの犠牲に関してどう考えるにしても、これには応答が求められることを知ってください。この贈り物、この犠牲に対するあなたの応答はなんですか?ジョージ・ウィルソンのように拒否しますか?
祈り:天のお父さん、イエス・キリストと彼の大きな犠牲のうちに現された、あなたの大きな愛と恵みに感謝します。私を罪からきよめ、新しくしてください。私の人生をあなたに捧げ、私を縛ってきた霊的束縛から自由にしてください。アーメン!
キース・トーマス
Email:keiththomas@groupbiblestudy.com
ウェブサイト:www.groupbiblestudy.com
本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。