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11. The Appearance of Heaven's King

11.天の王の出現

ヨハネの黙示録の15章と第16章では、神の怒りに満ちた七つの鉢が悔い改めを拒んだ地上に注がれるのを見ました。七つ目の鉢は、国々の都市が崩壊することと関係があり、具体的には大バビロンが神の憤りを受けたと言及されています(黙示録16章19節)。黙示録の著者である使徒ヨハネは、世界機構による世界的な悪影響、特に悪魔の影響下にある都市の破滅を説明するために、補足として17章と第18章を書き留めました。そして19章では、天にいる神の民と、王なるイエスと、再臨に焦点を当てています。

 

天での喜び

 

その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。神のさばきは真実で正しいからである。神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」もう一度、彼らは言った。「ハレルヤ。彼女が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」すると、二十四人の長老たちと四つの生き物はひれ伏して、御座に着いておられる神を礼拝して言った。「アーメン。ハレルヤ。」また、御座から声が出て、こう言った。「神のすべてのしもべたちよ、神を恐れる者たちよ、小さい者も大きい者も私たちの神を賛美せよ。」(ヨハネの黙示録19章1~5節)

 

1節において、私たちは神の御座の前の場面に戻されます。そこでは、黙示録7章9〜17節に描かれているように大群衆がいます。多くの聖徒たちと御使いは、「大淫婦」と呼ばれる世界機構の破滅を喜ばずにはいられません(2節)。彼らはその破滅を目撃して、永遠に燃える邪悪な都市――大バビロン――から煙が立ち上るのを見ます(3節)。なぜ神の民は喜ぶのでしょうか。それは、神の義が欺瞞、不道徳、そして魔術で地を腐敗させたその都市に勝利したからです(2節)。神はしもべたちの死に報復されます。

 

大バビロンの破滅を見ている天にいるこれらの人々に関して、印象に残ったことは何ですか?

 

バビロンの堕落を悼む地上の人々からの嘆きとは対照的に、私たちは神の聖徒から湧き出る喜びの勝利の叫びを目撃します。4つのハレルヤが鳴り響きます(1、3、4、6節に対して)。 ハレルヤという言葉は、ヘブライ語のハレルとヤハウェをギリシャ語に音訳したもので、「主を賛美しよう」という意味です。新約聖書で使われているハレルヤという言葉は4回だけで、この章にはそれら4つすべてがあります。ヘブライ語のハレルは詩篇113〜118で使われています。 これらの詩篇は、ユダヤ人が毎年の過越の祭りのためにエルサレムの山々と神殿に登るときに歌われました。彼らは、出エジプト記の中で、神がその国をエジプトでの奴隷制から見事に救われたことを賛美しました(詩篇111章1節;112章1節;113章1節)。

 

黙示録では、奴隷制からの二度目の救出について読みました。最初はファラオとエジプトからの救出でしたが、神は終わりの時に、今度はユダヤ人だけでなく、異邦人の中で神を愛する者も反キリストの隷属からに再び救い出されます(エレミヤ16:14〜15)。メシアは、彼に信頼を置くすべての人を救い、解放するために来られるでしょう。彼らは、神の救い、栄光に輝く神の現れ、敵を滅ぼすその力、そして主に反抗して立てられたすべての地上の王国を神が無に帰されることを、ほめたたえます。

 

子羊の婚礼

 

また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。私は御使いの足もとにひれ伏して、礼拝しようとした。すると、御使いは私に言った。「いけません。私はあなたや、イエスの証しを堅く保っている、あなたの兄弟たちと同じしもべです。神を礼拝しなさい。イエスの証しは預言の霊なのです。」(ヨハネの黙示録19章6~10節)

 

ヨハネは大群衆の声を聞いており、それは「大水のとどろき」のように聞こえます。もう一つの「ハレルヤ」は、邪悪な時代が終わり、イスラエルのメシアが父ダビデの王位に就いたことが知れ渡ったので、神へと立ち昇りました(6節)。子羊の婚礼のときが来たので、天には喜びがあります。その日には、なんと素晴らしい上質な「亜麻布」を着ることになるでしょう!(9節)。キリストを信じる者はその似姿に変えられ、キリストの栄光を表します(第二コリント3章18節)。「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ(イザヤ書61章10節)」。輝くきよい亜麻布は祭壇の前で仕え、唯一神の御前に近づくことができた祭司たちを表します。

 

彼らは、内庭の門に入るときには、亜麻布の服を着なければならない。内庭の門、および神殿の中で務めをするときは、毛織物を身に着けてはならない。(エゼキエル書44章17節)

 

毛皮のような衣服を祭司職は身につけませんでした。なぜなら、毛織物は温かすぎて汗をかきますし、汗だくで神に近づくことは許されないからです。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ(創世記3章19節)」。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された(8節)とは、信者たちが新しい祭司となることを表します。神は花嫁を王、そして祭司にします。「『私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです』(ヨハネの黙示録5章10節)」。

 

神の贖われた人々に対する目的と計画について書いている6〜10節を読んで、どの言葉が心に留まりましたか?

 

10人の娘の例え話(マタイ25章1〜13節)で、イエスは「子羊の婚礼の晩餐」を、花婿が花嫁を迎えることと、晩餐への道を照らす役目を持った10人の娘で象徴しました。最も暗い時間であり、睡眠が最も深い真夜中(マタイ25章6節)の、突然の呼び出しは、まず10人の娘たちを目覚めさせました。彼女たちは皆、花婿が来たという使いの呼びかけを聞きました。すぐに娘たちは花婿を迎えるために立ち上がります。用意ができていた「賢い娘たち」は、持っていた灯火へさらに油を注ぎました(マタイ25章5節)。そして、彼女たちは灯火を整え、花婿を出迎えに行きました。ここで覚えるべき点として、聖書は神なるイエスが再臨されるときに、イエスと神の僕である私たちが結ばれると語っていることです。

 

イエスが永遠の愛を宣言されるときに、イエスの麗しい御顔よりも輝かしいものはありません。私たちは永遠に彼と共に生きます。その日、私たちに敵対する者は誰もいません。すべての罪は赦され、イエスの血潮でおおわれているので、天の父の御前で私たちを非難する者はいません。キリストが私たちの代わりに死んでくださったので、神の義は十字架上で全うされました。5人の賢い娘は用意ができていました。そして、花婿と一緒に婚礼の祝宴に参加した人たちでした。「そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。(マタイの福音書25章10節)」

 

この祝宴で私たちはただの結婚式の参列者ではなく、その主役となります。この祝宴は地上での結婚式とは異なります。これは天での結婚式なのです。あなたが今まで参列したどんな結婚式よりも輝かしく、もう一度言いますが、もしあなたがキリストを信じるのなら、あなたはその花嫁なのです!その日、イエスの永遠の婚姻の誓いをあなた自身が聞くことになるでしょう。今この時、この地においては、私たちはパウロがコリントの教会への手紙で書いたように(第二コリント人への手紙11:2)婚約、つまり結婚の約束がされている状態でしかありませんが、花婿が来られると、婚姻の時がやってきます。

 

今度、あなたが結婚式に参列することがあれば、それをイエスがあなたを婚礼へと招かれる日の「型」として見てみてください。用意ができていた娘は、花婿と一緒に婚礼の祝宴に参加しました。その日には、もはや悪、誘惑や涙はありません。イエスが次のように言われたからです。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章4節)」

 

キリストが来られると、直ちに婚礼の祝宴に招かれます。その呼びかけを聞いた場面のことを考えると、これはただの寓話ではありません。「煉獄」を初めに通るというようなことは聖書に記されていません。キリストが再臨されたその一瞬のうちになされるでしょう。あなたが信者であるならば、喜びは素晴らしいものでしょう。地の暗闇のうちにキリストが来られるのを見たとき、あなたの顔は輝きを増します。

 

ここで触れておかなければならない危険な考え方があります。キリストが再臨された時に「戸が閉じられる」と書かれています。キリストが再臨された後も、クリスチャンになる機会はまだあると言う人もいますが、それは著者の見解からすると惑わしです。その教えは、教会が携挙された後にまで、悔い改めを先延ばしできることを意味します。10人の娘のたとえ話は、それを否定しています。なぜなら、5人の賢い娘が婚礼の祝宴に入った後に、「戸が閉じられた」と書かれているからです(マタイ25章10節)。「戸が閉じられた」ということは、それからの新しい世のことを信じていた者の経験は永遠だということを象徴します。神があなたの人生でしてくださったことは、「その日」の準備に過ぎませんでしたが、その日が来ると、私たちがキリストと共に閉ざされることは永遠となり喜びとなります。

 

私たちの誰もがありのままでは天の喜びを享受することはできません。なぜなら、この地上にいる間、誰もそれを獲得するほどの善行を積むことはできないからです。王なるイエスだけが与えることのできる義の衣、すなわち「神のいのち」を受け入れなければなりません。一人一人の内に変化がなければなりません。イエスは次のように言われました。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネの福音書3章3節)」。「新しく」と訳されたギリシャ語には「上から」という意もあります。私たちが心から悔い改め(罪から主イエスへの従順に向きを変え)、神の賜物、すなわちキリストの永遠のいのちを受け取るとき、その時点から、私たちの名前はいのちの書に記されています(黙示録21章27節)。締め出された人にとっては辛いことですが、神の恵みによって婚礼の戸の中にいる私たちには純粋な喜びがあります。

 

娘たちが婚礼へと参加したときに親密さがあったのは、花婿がともにおられたからだという点に注意してください。花婿であるイエスが私たちの手を取って天の父の前へ導き、結婚を祝う、なんと素晴らしい時でしょう。キリストの再臨のとき、私たちは結婚の契約によって、永遠にキリストと一つになります。

 

花嫁は輝くきよい上質な亜麻布を与えられますが、花嫁の用意ができるとは何を意味するでしょうか(黙示録19章7〜8節)?

 

ヨハネは御使いの前で畏敬の念を抱き、御使いの前にひれ伏して礼拝しようとしました(10節)。これは、超自然的な存在に対する人間の自然な反応です。しかし、ヨハネはその行為をすぐに叱責されました。なぜなら、主だけが礼拝されるべき方だからです。たとえば、幸運の象徴として、聖クリストフォロスや聖マリアの肖像画が彫られた銀貨を身につける人がいますが、御使いが語ったことは「神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエス・・・(第一テモテへの手紙2章5節)」であるゆえに、神だけを礼拝するべきということです。

 

「イエスの証しは預言の霊」とは何を意味しますか(黙示録19章10節)?

 

旧約聖書では、この世の霊は神の代弁者であった預言者に対して特に敵対的でした。預言者はしばしば迫害され、時には敢えて悪に立ち向かったために殺されました。たとえば、洗礼者ヨハネや預言者エリヤのことを考えてみてください。主イエスについて証言し、救いと救いへの道を人に告げると、その時代の霊による反対があり、迫害や殉教にさえつながることがあります。つまりイエスの証は、預言の霊の油注ぎによって動くことのようです。それは、この世の霊と対抗するキリストの御霊です。

 

白い馬に乗る方

 

また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり、ご自分のほかはだれも知らない名が記されていた。その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。(ヨハネの黙示録19章11~16節)

 

白い馬に乗っている方を描写するのに使われている表現は何ですか?なぜこのように描かれていると考えますか?どのように彼は戦いますか(11、15節)?

 

その日がいつなのかは主のみがご存知ですが、少なくとも神の御怒りが注がれる前、暗闇の中で人々は突然天に大きな光を見るでしょう。そして主イエスは天の軍勢を伴い、白い馬に乗って来られるでしょう。マタイはまた、その日について語るイエスの言葉を次のように書いています。

 

そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。(マタイの福音書24章30~31節)

 

ヨハネはイエスの姿を「その目は燃える炎のようであり、その頭には多くの王冠があり・・(ヨハネの黙示録19章12節)」と描いています。ヨハネは象徴的な言葉を使っています。ヨハネが白い馬に乗って来られるキリストの姿を描く時、このような状況が初めてでないことを思い出します。この描写は反キリストが乗る「白い馬」と対比することができます(黙示録6章2節)。一つ目の封印が解かれた時、白い馬が偽物、つまり偽りを体現した反キリストを乗せて出てきました。この者は世界征服を試み、彼の後には飢饉と戦争がありました。

 

しかし、今ここに私たちは「まこと」であり「真実」であると呼ばれる方を見ます!栄光の王キリストが白い馬に乗り、その頭には多くの冠があります。以前、私たちは反キリストが勝利者の月桂冠を身につけていた場面を読みました。それは彼の地上の征服を象徴していました。しかし、真の勝利者であるキリストは多くの冠を持っています。なぜなら、彼は王の王であり、主の主だからです!彼の目はすべての心を溶かし、頭上にある多くの冠はすべての国と言語に対するキリストの支配を象徴しています。

 

ヨハネはキリストを「まこと」、「真実」と呼んでいます。誰かと3年間共に暮らしたり、歩んだりすることで、その人の人格を知ることができます。弟子たちと過ごした3年間でイエスが語った言葉はすべて、天の父への信仰に満ちているとヨハネによって証ししており、イエスまことに溢れた誠実な方であることがわかります。次に、ヨハネはキリストを「真実な方」と呼びます(11節)。キリストはその言葉に忠実であるので、私たちは信頼することができます。私たちは、完全に実現する預言と現実について学んでいるのです。

 

キリストと共に来る者たちは誰ですか?彼らはどのように描写されていますか(黙示録19章14節)?

 

二つの種類の者たちがキリストと共に来ます。

 

1)まず、キリストは御使いたちと共に来られます

 

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(第二テサロニケ人への手紙1章7~10節)

 

繰り返しになりますが、キリストの再臨のとき、もはや救いへの二度目の機会はありません。キリストの身代わりの犠牲による救いを拒んだ人々は主の御前から退けられます(9節)。上記のパウロによる手紙には、キリストを愛する者たちにとって彼は「感嘆の的」であると描かれています。再臨の時には、その表現は少しばかり控えめなものとなるでしょう。

 

2)次にイエスはキリストにあって眠った、死んだ者たちを連れてこられます。

 

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。(第一テサロニケ人への手紙4章14節)

 

キリストが栄光と力に満ちている姿を見ることは、どんな光景になることでしょう。それから、褒美が与えられる、地の回復とも呼ばれる復活が起きます。「そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。(マタイの福音書19章28節)」

 

獣と偽預言者の敗北

 

黙示録19章の最後では、人類の最後の戦いのもう一つの側面を見ます。

 

また私は、一人の御使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛んでいるすべての鳥たちに言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。王たちの肉、千人隊長の肉、力ある者たちの肉、馬とそれに乗っている者たちの肉、すべての自由人と奴隷たち、また小さい者や大きい者たちの肉を食べよ。」また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。(ヨハネの黙示録19章17~21節)

 

ここでもう一度、私たちは悪い霊たちが王の王、主の主であるキリストに対して軍勢を集める最後の戦いの場面を見ます。ここで読む内容は敵に対する勝利とそれに伴う世の終わりです。ハレルヤ!

もう一つ興味深い点は、ヨハネが12節で記した、主イエスご自身に記された誰も知らない謎めいた名前です。

 

この名は何を象徴すると思いますか?実際の名前なのか、または何か別の意味があるのでしょうか?

 

この名前は謎なので、これが何を意味するのかはっきりとは言えません。しかし、その名はイエスが天の父と持つ独自の関係性を指し示しているかもしれません。この推測は、勝利を収めた信者に彼らだけが知る新しい名前を与える、というイエスの約束に似ています。「勝利を得る者には、わたしは隠されているマナを与える。また、白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が記されている。(ヨハネの黙示録2章17節)繰り返しますが、私はこの名が関係性を表すと考えます。聖徒たちはキリストの花嫁であり、キリストは一人ひとりをよく知っておられます。私たちは皆、父なる神のものであり、私たちの名は尊ばれ、唯一であり、神から与えられるものです。

 

祈り:天の父よ、あなたの偉大さにおいて、あなたは私たち一人一人を愛し、私たちを名前で呼んでくださることに感謝します。「ハレルヤ!」とあなたの御前で叫ぶ瞬間を待ちきれません。あなたはすでに罪と死に勝利されたからです!あなたを私たちの王として受け入れます。扉がまだ開いている間に、私たちを助け、子羊の晩餐への素晴らしい招待状を周りの人々にも送るために私たちを強めてください。アーメン!

 

キース・トーマス

 

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本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。