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1. What Lies Beyond Death's Door

1. 死の扉の先には何があるのか?

臨死体験

 

1976年、イギリスからアジアを陸路で旅行する準備をしていたとき、インドやその他の国々に訪れるため、予防接種を受ける必要があることに気づきました。ワクチンを接種した医師は、少なくとも24時間はアルコールを飲まないようにと警告しました。その夜遅く、私は愚かなことをしました(絶対に真似はしないでくださいね!)。私は医師のアドバイスに従わなかったのです。40年前にキリストの弟子になって以来、私は以前よりずっと賢くなったといえますが、10代から20代前半の人生は悪い選択ばかりしていました。私はまだマリファナ中毒だったので、自分を刺激する物がない夜遊びなどあり得なかったのです。

 

医者に診てもらった後、私はすでに夜の予定を立てていました。ヨーロッパとアジアを旅する前に、私を見送ってくれる友人たちとパブに集まる予定でした。医師の警告を思い出し、外出する前に飲んではいけないと自分に言い聞かせました。賢明な決断でしたが、私は酒を飲まない代わりに少しのハシシ(より強力な種類のマリファナ)は害にならないのでは?と考えたのです。持っていたハシシを吸うのには時間が掛かりすぎたので、それを食べてからパブに歩いて行き友人に会いました。私が到着するとすぐに、友人がビールを半パイント注文してくれました。私はそれが少量だったので、少しぐらい飲んでも害はないと思いました。その上、友人に失礼なことをしたくありませんでした。

 

食べたハシシのせいで、私の判断力は鈍っていました。ビールを飲むとすぐに気分が悪くなったのです。私は自分の中で起きていることを制御できませんでした。予防接種を受けたため、消費したハシシとアルコールの量が私の体には多すぎたようです。私は医師の警告を思い出し始め、体に何かひどいことが起きていることに気づいてパブを出ました。アパートに戻らなければならないと思ったのです。どういうわけか、私は死が近いと感づいていました。

 

私はアパートによろめきながら入り、ソファに横になりました。それから奇妙なことが起こりました。その体験は、それまで私が信じていたすべてを変えました。私は実際に肉体を離れ、部屋の天井に対して平行に空中にとどまり、自分の体を見下ろしていたのです。この体験は幻でも夢でもなく、現実でした。私の体はソファの上に横たわっていましたが、私はその中にいませんでした!そして、私は憐れんでくださるように神に叫び求め始めました。その出来事が起こるまで、私は完全な無神論者であり、クリスチャンである親戚や友人はいませんでした。神を信じていなかったのですが、突然の出来事に、祈らなければ明日はないと思ったのです!命が懸かっていると思いました!

 

以前、死とは、その存在が消えて無くなってしまうだけのことだと信じていました。しかし、その考えは突然変わりました。私は信じていなかった神に向かって叫んでいました。もし私を生かしてくれたら、私の人生を神に捧げます、望まれることを何でもします、と約束したのです。そして、突然、私は神の恵みによって体に戻って生き返りました。人は死んだ後どうなってしまうのか知らなかったので、この体験をして以来、命を尊いものとして考えるようになりました。

 

ウォームアップ:

死にかけた体験や身近な人の死を経験したことはありますか?あなたの体験をお分かちください。

 

この臨死体験は私の人生の分岐点になりました。しかしながら、神に約束したことが実際は何を意味するのか分かっていなかったので、その翌日には約束を破棄していました。私は神が誰であるか、また神を見出す方法を全く知りませんでした。その時に私が知っていた、または信じていたのは、この宇宙には生命を超えた何かがあるということだけでした。私たちの命がこの肉体に制限されるものではないと考えたのです。こうして私は死後の世界に魅かれ、死後に起こることを知ろうとしました。ある時にスピリチュアリスト・チャーチ(心霊主義に基づいたカルト宗教)を訪れて彼らの信じていることを知ろうとしましたが、結局、足を踏み入れることができませんでした。まるでその団体の扉には見えない障壁があるようで、入ろうとするたびに胸が動悸し、入ることができなかったのです。今思えば、神が私を悪い嘘の教えから守ってくれていたのでした。

 

そのように真理を求めていたとき、ある幾人かの患者を蘇生させたことがある医師が書いた本に出会いました。その本は、レイモンド・A・ムーディ医学博士による「かいまみた死後の世界」でした。1970年代に様々な新しい蘇生法が広く利用できるようになり、一般的に致命的な事故を乗り越える人が増えました。ムーディ博士の患者の何人かは彼に死後の体験について話しました。ムーディー博士は、これらの患者が共有した内容に非常に興味をそそられ、他の医師と話し始め、ついに、蘇生した150人以上の症例ファイルを手に入れました。彼らの興味深い体験談の多くはこの本に記されています。これらの患者の体験談には驚くべき類似点があります。その類似点から、博士は誰もが死んだ時に体験するであろうことを簡潔かつ理論的に次のように説明しました。

 

私は瀕死の状態にあった。物理的な肉体の危機が頂点に達した時、担当の医師がわたしの死を宣告しているのが聞こえた。耳障りな音が聞え始めた。大きく響きわたる音だ。騒々しくうなるような音といったほうがいいかもしれない。同時に、長くて暗いトンネルの中を、猛烈な速度で通り抜けているような感じがした。それから突然、自分自身の物理的肉体から抜け出したのがわかった。しかしこの時はまだ、今までとおなじ物理的世界にいて、わたしはある距離を保った場所から、まるで傍観者のように自分自身の物理的体を見つめていた。この異常な状態で、自分がついさきほど抜け出した物理的な肉体に蘇生術が施されているのを観察している。精神的には非常に混乱していた。

 

しばらくすると落ち着いてきて、現に自分がおかれている奇妙な状態に慣れてきた。わたしには今でも「体」が備わっているが、この体は先に抜け出した物理的肉体とは本質的に異質なもので、きわめて特異な能力を持っていることがわかった。まもなく別のことが始まった。誰かがわたしに力をかすために、会いにきてくれた。すでに死亡している親戚とか友達の霊が、すぐそばにいるのがなんとなくわかった。そして、今まで一度も経験したことがないような愛と暖かさに満ちた霊―光の生命―が現れた。この光の生命は、わたしに自分の一生を総括させるために質問を投げかけた。具体的な言葉を介在させずに質問したのである。さらに、わたしの生涯における主なできごとを連続的に、しかも一瞬のうちに再生して見せることで、総括の手助けしてくれた。ある時点で、わたしは自分が一種の障壁とも境界ともいえるようなものに少しずつ近づいているのに気づいた。それはまぎれもなく、現世と来世との境い目であった。しかし、わたしは現世にもどらなければならない、今はまだ死ぬ時ではないと思った。この時点で葛藤が生じた。なぜなら、わたしは今や死後の世界での体験にすっかり心を奪われていて、現世にはもどりたくはなかったから。激しい歓喜、愛、やすらぎに圧倒されていた。ところが意に反して、どういうわけか、わたしは再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生した。

 

その後、あの時の体験をほかの人に話そうとしたけれど、うまくいかなかった。まず第一に、想像を絶するあの体験を、適切に表現できることばが全然見つからなかった。それに、苦労して話しても、物笑いの種にされてしまった。だからもう誰にも話さない。しかし、あの体験をしたおかげでわたしの人生は大きな影響を受けた。中でも、死と人生との関係に関するわたしの考え方に、大きな影響を受けた。

 

レイモンド・ムーディがこの本を書いているときにクリスチャンだったのか、それとも他の精神的な信念を持っていたのかはわかりません。彼は著書で、臨死体験を共有した人々がどのような信仰を持っていたのかに関しては特定していません。ある人々はキリスト教の信仰を持っていましたが、この本の目的とは純粋に科学的観点から臨死体験を観察することでした。

 

もちろん、私たちは死後の世界について取り扱っている本には気をつける必要があります。なぜなら、イエスは終わりの時には偽預言者(偽りのことばを広めて人々を惑わす者たち)がたくさん起こるだろうと言われたからです(マタイの福音書24章11節)。たとえば、1992年にベティ・イーディーは幽体離脱を経験したと主張し、著書「死んで私が体験したこと―主の光に抱かれた至福の四時間―」において、はじめの人間アダムの妻イヴは誘惑に陥ったのではなく、自らが神のようになるため「意識的に」決断を下したと述べています。それから、米国にあるクロスローズ・ウェズリーアン教会の牧師トッド・バーポが、3歳の息子コルトンが虫垂炎の手術中に生死をさまよい、天国に行った体験を描いている本「天国は、ほんとうにある―天国へ旅して帰ってきた小さな男の子の驚くべき物語―」があります。その本には、神は大天使ガブリエルのように描かれており、さらには、青い目、茶髪、そして巨大な翼を持っていると書かれています。海のような青みがかった目や茶髪、翼はないが、虹色の馬を持ったイエスの姿。そして、青みがかった、はっきりと見ることができない聖霊の姿。このような描写は聖書には描かれてはいないものです。クリスチャンとして、私たちはそのような主張を真実として受け入れるべきではないと考えます。

 

私はこの類の本を読みません。なぜなら、聖書にはイエスを見た人々が畏れを抱き、死んだ者のようにその足元に倒れ込む描写があるからです。ヨハネの黙示録の1章17節に記録されている使徒ヨハネの経験はそのようなものでした。永遠のものに関して私たちが信頼できる唯一の書物は聖書です。私は聖書に一体何が書かれているのかを皆さんにお伝えするべく尽力します。

 

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。(ヘブル人への手紙6章1~2節)

 

学んだことを当てはめ、心に留めておけば、これらの初歩的な教えはクリスチャンとして成熟するのに役立ちます。この学びでは、イエスが教えられた天国だけでなく地獄についても学ぶので、難しさを感じることもあるでしょう。しかし、イエスは死後の世界について多く言及されたので、私たちがイエスのもとに旅立つ日に思いを馳せ、自分自身を整えるためにイエスの教えをしっかりと理解することが不可欠です。私たちは唯物論が支配する文化に生きているので、多くの人は死について話すことを躊躇します。触れて見ることができるものだけが本物として認識され、計量や測定、感じることができない、または見ることができないものはすべて疑わしいと見なされます。そのような人々は、見ることができないものをどうして信じることができるでしょうか?

 

イエスは全く違う生き方をしました。彼は私たちに霊的な目を開いて、永遠のいのちという宝を見るように促します。私たちが来たるべき永遠の世界へ向かって生きていることを明確に知ることができれば、この人生における選択は根本的に変わるでしょう。私たちの人生、また私たちの周りの人たちの人生に影響を与えることのできる時間がまだある今この時から、死について考えるということが大切です。この世での人生は永遠に比べると一瞬です。スティーヴン・ホーキング(英国の理論物理学者)がかつて言ったように、「永遠というのはとても長い時間であり、果てしないもの」なのです。

 

  • これらの臨死体験を読んで、どのような点で驚きましたか?
  • 仮にこのような体験をして奇跡的に生き返ったとしたら、あなたの人生はどのように変わると思いますか?

 

聖書は魂が眠ることについて教えているのか?

 

クリスチャンが死ぬと、その魂は眠り、イエスが教会の携挙(イエスが世の終わりに彼を信じる者たちを迎えに来ること)のために来られるまで、その人は意識を失った状態になると信じる人もいます。この考えを「魂の睡眠」と言います。聖書には、イエスがある人々の死について「眠っている」と語った箇所がいくつかあります。

 

イエスがラザロ(イエスの大切な友人の一人)を死からよみがえらせたとき、あえてもう2日間待ってから、ラザロの墓に向かいました(ヨハネの福音書11章26節)。イエスがラザロを生き返らせるために、あえてすぐには向かわなかったのを不思議に思いませんか?ユダヤの伝承には、人の魂がその死後3日まで肉体の近くにとどまることができるという言い伝えがありました。イエスはそのことを踏まえて、自分が死に対して権威を持っていることを疑う者たちに証明できるように、あえて待ったのかもしれません。ラザロは墓の中で「眠って」いませんでした。「死んで」いたのです。

 

イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。

(ヨハネの福音書11章11~13節)

 

イエスは次のように言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

(ヨハネの福音書11章25~26節)

 

またイエスは教会管理人ヤイロの娘を生き返らせた時に、死に関して「眠っている」と話されました。

 

イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。

(ルカの福音書8章49~56節)

 

3)この箇所から死について何を学ぶことができますか?あなたにとって印象的な点は何ですか?

 

イエス・キリストを信じる者は本当の意味で、決して死ぬことはありません。人が死んでその霊が肉体から離れた状態をイエスは「眠っている」と呼んでいます。イエスがヤイロの娘の手を取って起きるように言われたとき、彼女の霊は戻りました。少女はどこにいたのでしょう? 彼女の肉体は死んでいて、イエスとその弟子3人の前で床に横たわっていましたが、彼女の実際の魂はどこか別の場所にありました。彼女が何を経験したか知りたくありませんか?主イエスによれば、人はキリストとの関係を持っていない状態の時、本当の意味で「死んだもの」です(エペソ人への手紙2章1、5節)。霊と魂は聖書の中で同じような意味で使われています。旧約聖書の第一列王記17章17節では、幼い男の子の呼吸が止まったと書かれています(英訳聖書のNIV訳から引用)。ヘブライ語では、男の子の「魂」(ヘブライ語で「ネフェシュ」)が去ったと書かれています。同じ箇所の22節では、預言者エリヤが祈りを捧げた後に男の子の「いのち」が戻ったと記されています。ここでも、使用されているヘブライ語は「ネフェシュ」で、少年の「魂」が戻ってきたことを意味します。

 

聖書は、今は完全なものとされた者たちの霊(信じるもの達の霊)が天の御国におり(ヘブル人への手紙12章23節)、そして他の箇所では、キリストが教会を携挙するために戻ってこられる時、「神は・・・、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られ・・・(第一テサロニケ人への手紙4章14節)」ると教えています。これらの箇所から、神を信じる者が死ぬとその肉体は墓に収められますが、目に見えない霊や魂は主と共にあることが分かります。

 

ある弟子がイエスにつき従って行く前に、まず彼の父親を葬る許しを得ようとした時、イエスは「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい(マタイの福音書8章22節)」と言われました。ここでイエスが言ったことは、肉体的にではなく、「霊的に」死んでいる者たちにその父親を葬らせなさい、ということだったと考えます。これは、肉体的に死ぬ以前に霊的に死ぬことの危険性を示しているのではないでしょうか。

 

エンジンをつけるまで車は止まった状態です。私がそれを運転しなければ、車は動かないのです。同様に、本当の私とは自分の肉体を「動かす」霊と魂で構成されています。ですから、人の霊と魂は肉体が死んでも生きています。この肉体が死ぬと終わりなのではなく、その先があるのです。

 

「私たちは葬式で人ではなく物を葬る。その住人ではなく、佇まいを葬るのだ。」

ヴェルーナ・ライト

 

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。

(第二コリント人への手紙5章1節)

 

イスラエルに住む私たち夫婦の親友であるクリスティンという敬虔な女性は、数年前に胎に子どもを宿していました。しかし、ある日、彼女は自宅で流産し、過剰出血で亡くなってしまったのです。彼女の霊が肉体から去ったとき、彼女はすぐに、すでに亡くなっていた家族と友人のなじみのある顔を見始めたそうです。みんなが彼女に「おかえりなさい、クリスティン」と歌い始めたとき、大きな平安が彼女を満たしました。そして目の前に、主イエスが彼女を歓迎し立っていたそうです。イエスは彼女に、ここにとどまるか、地上に戻って神が彼女に与えられた仕事を終えるか選ぶことができると言いました。

この時点で、彼女の夫が彼女の体が横たわっていた部屋に入ってきました。夫は彼女の脈を取り、クリスティンが死亡していることを確認しました。そうして彼は深い苦痛の中から、クリスティンを生き返らせてくださいと主に強く願い始めたのです。クリスティンから聞いた話では、彼女はそのとき地上に戻るという選択をしたか覚えてはいなかったのですが、実際彼女は戻ってきて、目を開き、夫に怖がらずに病院に連れていってと頼んだそうです。二人が病院に到着したとき、医者や看護師たちが彼女に輸血したのですが、なぜ彼女が出血多量で死んでいないか不思議に思いました。彼女がイスラエルでの使命を果たすために、神が憐れんで、年数を加えてくださったのでしょう。今日、イスラエルの人々のために彼女は働き、様々な奇跡をイスラエル、エルサレムで証しています。

 

  • あなたの人生で、何か超自然的なものに救われ、致命的な事故から免れた経験などはありますか?

 

Precious in the sight of the LORD is the death of his saints (Psalm 116:15, 新国際訳聖書). 

 

日本語訳では、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い(詩篇116篇15節、新改訳聖書2017)」と訳されています。

 

Precious (important and no light matter) in the sight of the Lord is the death of His saints (His loving ones) (Psalm 116:15, 詳訳聖書)

 

一方で詳訳聖書(英訳)には「主の聖徒たち(主の愛されるものたち)の死は主の目に尊い(重要であり軽いものではない)」といった解説が記されています。

 

  • なぜ神に信頼する聖徒たちの死を神は喜ばれるのでしょうか?

 

もし死んで眠りにつくだけだとしたら、神は私たちの死をどのように喜ぶことができるでしょうか?この世から旅立つ時に無意識の状態であるならば、なぜイエスは十字架上で同じく十字架刑に処せられていた強盗の一人に次のように言われたのでしょうか?「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイス(天国)にいます(ルカの福音書23章43節)」。イエスは「世の終わりの日までぐっすり眠った後に、あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」とは言いませんでした。死んでその日にイエスとともに天国にいるだろう、と教えていたことは明らかです。

 

この世のいのちの終わりと天国との間に中間地点はあるのか?

 

なぜ聖書は「煉獄(カトリック教会の教義で天国に入る前にある清めの期間)」について何も記していないのでしょうか?

 

カトリック百科事典によると、煉獄とは「罪から完全には解放されていない、または罪の代償を支払いきっていない、世を去った人々のための一時的な罰の場所または状態」だそうです。カトリックの神学では、煉獄とはキリスト教徒の魂が死後、償われていない罪を清めるために行く場所です。この教義は聖書と一致しているでしょうか?いいえ、そうではありません!

 

イエスは私たちのすべての罪のために死なれました(ローマ人への手紙5章8節)。イザヤ書53章5節は次のように語っています。

 

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 

イエスが私たちの罪のために苦しまれたのは、私たちが苦しみから解放されるためでした。私たちも自分の罪のために苦しむ必要があるということは、イエスの苦しみが不十分だったということになります。煉獄での清めによって罪を償う必要があるということは、イエスの贖いの犠牲の十分さを否定することです(第一ヨハネの手紙2章2節)。死後、罪のために苦しむ必要があるという考え方は、聖書が語る救いについての御言葉すべてに反しています。

 

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。(ヘブル人への手紙10章14節)

 

人が死ぬときに見る2つの世界

 

人が死にかけているとき、その霊はしばしば両方の世界―地上と天国―の間を漂うと考えられます。キリスト教伝道者のドワイト・ムーディーが亡くなる数時間前、彼は自分を待っている栄光を垣間見たそうです。目覚めた時、彼は次のように話したと記録されています。

 

 ・・・地上を後にし、天国の門が私の前に開かれた。これが死というものなら、何と甘美なことか!ここに死の影の谷はない。神が私を呼ばれている、行かなければ!」ベッドの脇に立っていた息子は、「いや、お父さん、あなたは夢を見ている」と言った。「いや」とムーディーは言った。「私は天国の門にいた。そこで子供たちの顔を見たのだ。」彼の家族はムーディー氏が死と闘っているように見えた。しかし、しばらくして、彼は再び話し始めた。「これが私の勝利、主からの栄誉を授かる日!なんという栄光!」・・

 

ムーディーは夢を見たのだと言う人もいますが、聖書は死の間際で両方の世界を見た人について語っています。その人物とはキリスト教で最初の殉教者ステパノです。以下の箇所は、ステパノがクリスチャンを迫害していた人々に福音を分かち合った直後に起きた出来事を記録しています。

 

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。(使徒の働き7章54〜60節、強調は筆者による)

 

イエスがステパノを迎えるために立っておられるのを見た後に、ステパノが死んだという状況を読み取れたでしょうか?神は死んだ者の神ではありません!死ぬと肉体は墓に収められ、霊は離れていますが、神を信じる私たち一人一人は死を超えて生きます。聖書は、この世のいのちの終わりが永遠の始まりであることを教えていると私は信じています。このことは、イエスがアブラハムやイサク、ヤコブについて語られたことではないでしょうか?

 

死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。』(マルコの福音書12章26〜27節)

 

使徒パウロは次のように書き記しました。「・・・むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています(第二コリント人への手紙5章8節)」。パウロはまた、死んでキリストとともにいる願いをピリピの教会に宛てて書いています。


しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。( ピリピ人への手紙1章22〜24節)

 

パウロが死ぬ時、彼は無意識の状態で眠りにつくと思ってはいなかったようです。キリストとともに生きることを心から望んでいました。それどころか、彼はそれが「はるかに望ましい」とさえ語っています!上記23節の「(世を)去る」という言葉は、錨を上げることを意味するギリシャ語から訳されています。AT・ロバートソンはそれを「錨を上げ、海に出ること」と訳しています。二千年の間眠りにつく準備をしていたとしたら、パウロはそれが「はるかに望ましい」ことと考えられるでしょうか?

 

ヴィクトル・ユーゴーはかつて次のように書きました。「他の多くの人と同じように私が墓に葬られるとき、私は仕事を終えたが、人生を終えたわけではない。仕事はまた翌朝始まるのだ。私の墓は盲目の路地ではなく大通。夜が明けるために夕暮れに閉じる。」

 

ルース・グラハム・ベル(米国のキリスト教伝道者ビリー・グラハムの妻)は、彼女の著書「パックラットの遺産」の中で、ある実話に基づく物語を語っています。

 

部屋は静かで少し暗かった。枕に横になっている年配の女性は、息子のロバートが家族や友人、その他彼女の興味のあることについて話すのを聞いていた。彼女は息子の毎日の訪問を楽しみにしていた。彼が住んでいたマディソンは母親の住むナッシュビルからそれほど遠くなく、ロバートは母親と一緒にできるだけ多くの時間を過ごしていた。話している間、彼は愛する母親の昔よりもしわが目立つようになった顔や白髪、重たくも愛らしい目を見つめていた。家に帰る時間になったとき、彼は母親の頬に優しくキスをし、また翌日来ると約束した。マディソンの自宅に戻ると、彼の17歳の息子ロビンが奇妙な熱を出して病気になっていることに気づいた。次の数日間、彼は息子と母親のために時間を費やすことになった。彼は母親にロビンの病気について話さなかった。ロビンは彼女の誇りと喜びである最初の孫だった。しかし、突然にも、ロビンは亡くなってしまった。彼の死は家族だけでなく共同体全体に衝撃を与えた。あっという間のことだった。17歳は死ぬにはあまりにも若すぎた。

 

葬式が終わるとすぐに、アーミステッド氏は自分の態度によって母親が孫の死を悟ることがないようにと祈りながら、母親のもとに急いで行った。体が弱っている母親がその事実を受け入れるのはあまりにも酷だったからだ。彼が到着すると、医者が部屋にいた。彼の母親は目を閉じて横になっていた。「彼女は昏睡状態にあります」と医者は優しく言った。その医者は彼が緊張状態にあること、誠実に母親を見舞っていたこと、息子の突然の死やその葬式のことをおそらく知っていた。医者は黙ってアーミステッド氏の肩に手を置き、「お母様のそばにお座りください」と言った。「また目が覚めるかもしれない・・・」と言って彼と母親を二人きりにした。アーミステッド氏は、薄暗い部屋で心が重く感じられた。ベッドサイドテーブルのランプを点けると、部屋は明るくなった。すると、母親がすぐ目を開き、彼を見つけて微笑んだ。そして、息子の膝に手を置いた。 「ボブ・・・」と愛情を込めて彼の名前を呼び、そして再び昏睡状態に陥った。アーミステッド氏は静かに座って、手を彼女の上に置き、母親をじっと見つめていた。しばらくすると、枕元がわずかに動いた。母親の目は開いていて、まるで彼女が部屋の向こう側を見ているかのようだった。彼女は不思議な表情をし、「私はイエス様を見ている」と叫び、「なぜ父がいて、母がいるの」と言った。そして、「ロビーがいる!ロビーが死んだことを知らなかったわ。」と言ったのである。彼女は側にいる息子の膝を手で優しく撫でた。「かわいそうに、ボブ…」と言い、彼女は亡くなった。

 

彼女はどうのようにして孫が亡くなっていたことを知ったのでしょうか?彼女はこの地上での仮庵である肉体から去る際にイエスとともに天にいる孫の姿を見たのです。 

 

「主の聖徒たち(主の愛されるものたち)の死は主の目に尊い(重要であり軽いものではない)」(詳訳聖書詩篇116篇15節訳者独自訳)

 

神様、あなたは私たちに永遠を思う気持ちを与えられました。いずれ来たる永遠の世界に思いを馳せながらこの地上での人生を生きる時に、何が本当に重要なことか見分ける目を与えてください。アーメン(「その通りです」の意)。

 

キース・トーマスより翻案

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