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7. The Parable of the Loving Father

7. 愛なる天の父のたとえ話

ルカの福音書15章には、失われた羊のたとえ話(3〜7節)、銀貨を失くした女のたとえ話(8〜10節)、愛なる父のたとえ話(11〜32節)があります。15章全体の内容はパリサイ人(厳格に律法を守り、当時の指導的立場にあったユダヤ教の一派)と律法学者の態度に関係しています。イエスがこれらの3つのたとえ話を話されたきっかけは、イエスが罪人を受け入れ、食事を共にすることに対するパリサイ人たちの不満からです(2節)。そして、パリサイ人たちは、イエスがサタン(悪魔)の力によって奇跡を起こしたと主張しました(マタイの福音書12章24節)。その証拠として、彼らはイエスが関わっていた人々罪人、売春婦、徴税人を指摘しました。もしイエスが本当にメシア(救い主)であるなら、そのような人々と親密な関係を持つはずがないと主張したのです!

 

イエスはこれらの3つのたとえ話の中で、この世の失われた、貧しい、傷ついた人々に対する神の心を考え、神観念を改めるように教えました。この聴衆の中にいた宗教指導者たち(パリサイ人や律法学者たち)は当時、イスラエルの人々に対する権威を持っていました。人々は彼らの教える規則や規律を守る義務がありました。これらの宗教的指導者は、神に近づき、神に従うことを心から求める者として尊敬されていたのです。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです(マタイの福音書12章2〜3節)。」イエスは、律法学者とパリサイ人が規則や規律を守らない人々を軽蔑しているのを見て、失われた人(神から遠く離れている人、罪人)に対する神の心を教えるために例え話をされたのでしょう。先ほど触れた2つのたとえ話は、いなくなった羊と失くした硬貨を見つけた喜びと、それを祝う宴の様子で締めくくられています。

 

一般的に同11〜32節の話は「放蕩息子のたとえ話」として有名ですが、どちらかといえば、惜しまず与えた父親に関する話ではないでしょうか。そう考える理由は、この物語には「放蕩」に相当する英語の “prodigal” という言葉がでてこないからです。“prodigal”を辞書で調べますと、

 


「向こう見ず、もしくは無駄遣いの多いこと。必要でない兵器に浪費することや放蕩的な生活を送ること。惜しみなく与える、もしくは与えられること。たっぷりと、あふれんばかりに:あふれんばかりの賞賛など。」

 

とあります。つまり、この英語は「放蕩」以外に「気前の良い、惜しみない」とも訳すことができます。

 

確かに、息子は父からの相続財産を「惜しみなく」浪費しましたが、父親はそれよりずっと「気前よく、惜しみなく」息子を恵み、憐れみ、財産をすべて使い果たして帰郷した息子を迎え入れたのです。父はその息子にこれらのものを与える必要はなかったのですが、与えました。故に「気前よく、惜しみない」ということができます。これらのことを念頭に置いて、ルカの福音書13章にある3番目のたとえ話を読んでみましょう。

 

弟息子の家出

 

「イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」(ルカの福音書15章11〜16節)

 

この息子に関して最初に気付くのは、父親に対する辛い態度です。息子の言葉には、 父親への尊敬や気配りは見られません。言うまでもなく、息子は父親がどれほど豊かであることを知っていて、父親に要求しているのです。しかも、彼は事実上「あなたが死んだり引退したりする時ではなく、今、私の相続分を与えてください」と言っているのです。父親は息子の考えを知っていて、彼がその莫大な相続財産で何をしたいのか分かっていました。さて、兄息子と弟息子はどちらも、父親の財産が二人に分割されることを非常に喜んだことでしょう。モーセの律法(申命記21章17節)によれば、兄息子は父親の財産の3分の2、弟息子は3分の1を相続したのです。弟息子は現金を手に入れるためにその資産をすぐに売却したことでしょう。

 

問1)なぜ父親は息子の要求に応えたのでしょうか?

 

弟息子は家にいるのにうんざりしていたのかもしれません。大人になって、父親から離れた外の世界を体験したかったのかもしれません。父親は息子と議論したり、説得したりはしませんでした。父親が息子に教えることができない教訓があったのです。息子は経験する必要がありました。痛みは良い教師です。痛みだけが教えることができる教訓から親は子供たちを守ることはできません。幼い頃は親に頼ることを学びますが、いくつかの教訓は、自分の両足で立っているときにのみ得られます。ある時に、子どもは自ら羽ばたくために巣から出なければなりません。10代は子供が成長し、自立するための指導と準備をする時であると個人的に思います。子どもが親元から離れようとする時は寂しさを覚えるものです。そして、うまくいけば、その時が来る前に敬虔な人格が形成されていますが、良い親が全力を尽くしても、子どもは時々その教えから離れてしまうことがあります。

 

その息子は「・・・すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった(ルカの福音書15章13節)」と書かれています。後に、兄息子は弟と会っていないにも関わらず、弟が売春婦と一緒にいると非難しました(30節)。兄息子はそのことをどうして知っていたのでしょうか。可能性として、兄と弟が事前にそのことを話していたのかもしれません。つまり、弟が兄を誘おうとしたのです。罪を犯そうとしている人は、一人では難しく感じることがよくあります。罪は仲間が好きです。罪は思考から始まります。「人をその人たらしめるものは、その人の自己認識ではなく、その人の思いそのものである(作者不詳)。」スティーブン・チャーノックは次のように述べています。「印章の絵柄が封蝋に刻印されるように、心の思いは行動として表されます。」つまり、正しい思考は正しい生き方をもたらします。あなたの思考は神に筒抜けであることを忘れないでください。神はすべてをご存知です。邪悪で罪深い考えはすべての人の内にありますが、その思考のうちに生きるとそれが罪となり、それらは私たちの心の底に根付いてしまいます。これを防ぐ方法が一つあります。鳥が私たちの頭の周りを飛ぶのを止めることはできませんが、鳥が私たちの髪に巣を作ることは防ぐことができるのです。

 

「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブの手紙1章14〜15節)

 

「誘惑された」と訳されるギリシャ語は、餌で魚を捕まえることを意味します。邪悪な欲望と考えは、私たちを引っ掛けて巻き込むためにサタンが利用します。敵は私たちを神から離れた場所へと誘惑します。私たちがサタンの言葉を聞くほど、罪による縛りは強くなり、天の父の家から遠く離れてしまいます。たとえ話の放蕩息子は、サタンが釣竿を引っ張り上げるまで、餌につられ、誘惑に駆られて泳いでいました。しかし、突然、財産を使い果たして何も持たない状態で釣り上げられたのです。その時、誰も彼を助けませんでした。結果は痛々しいものでした。

 

私は1977年にキリストに出会いましたが、それ以前、私はマリファナを吸っていました。私は自分自身の生き方とセルフイメージにうんざりして、マリファナを少し手放した時、その悪習慣が強力に自分を捕らえていることに気づきました。結局は翌日もマリファナを買ってしまっていた自分がいました。「自分の家でマリファナを使用した」故に刑務所に行ったとき、麻薬への束縛から解放されなければならないことを知りました。それは私の人生を混乱させていたからです。そして、キリストに人生を捧げた時、私はついに悪い習慣を克服し、打ち勝つ力をいただくことができました。罪は厳しい主人のようでした。放蕩息子のお金が底をつき、ひどい飢饉がやってきたとき、彼の状況は変わりました。神は人の必要を用いて、人が神を求めるようにされることがあります。父親から遠く離れた土地での生活は、当初のように魅惑的ではありませんでした。代わりに、放蕩息子は惨めになりました。彼の人生は急に悪くなっていったのです。

 

問2)放蕩息子が堕落していく様子を読んでどう思いましたか?あなたの人生でこれまで、どうにも出来ないような状況に直面したことがありますか?その時、あなたの習慣は助けになりましたか?

 

食べ物自体が非常に貴重だった時代、放蕩息子に収入はありませんでした。普通なら仕事がありましたが、飢饉のためにほとんどなかったのでしょう。当時のパレスチナのような農耕経済では、土地やお金がなければ、生活は非常に困難だったはずです。息子は日雇い労働者として雇ってもらえるように頼んだのかもしれません。生活に困って食料を他人に頼ることは、彼にとって恥ずかしいことだったでしょう。さらに悪いことに、彼は豚に餌をやるために豚舎で働かされました。豚はユダヤ人にとって宗教上「清くない」動物でした。16節では、いなご豆が豚の餌だったと書かれています。ユダヤ教最高の律法学者の一人、ラビ・アキバ(西暦320年頃)はかつて「イスラエル人がいなご豆に飢えるほど落ちぶれたら、悔い改めます」と述べました。いなご豆の木は食用の種のために栽培された、地中海地域にある常緑の低木または樹木です。

 

 

ユダヤ人にとって、豚に餌をやるだけでなく、豚の餌であるいなご豆に飢えるほど落ちぶれることは、人生のどん底にいることを意味しました。

 

放蕩息子の目覚めと悔い改め

 

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカの福音書15章17〜20節)

 

問3)放蕩息子が彼の必要に気づいた様子を「彼は我に返って」と表現しています(17節)。その言葉は何を意味すると思いますか?悔い改めとは何で、この聖書箇所にあるどの言葉が放蕩息子の悔い改めを指していると思いますか?

 

欽定訳聖書は、放蕩息子の我に返る様子を He came to himself.(英語「彼は自分自身のもとに来た」の意)と訳し、人の現実への目覚めを説明しています。彼は確かに自分自身のそばにいましたが、今では自分の人生の状態を完全に理解しており、その狂気と愚かさに気づいたのです。旧約聖書にある「伝道者の書」を書いたと言われるイスラエルのソロモン王は、次のように語っています。「・・・人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり・・・(伝道者の書9章3節)」。神との関係から離れて生きることは狂気であり、愚かなことです。死ぬのは今日ではないと信じて、精神的なロシアンルーレットをするかのように、私たちは自分を騙しています。誰もその日に何が起こるのか分かりません。私たちは、人生を終わらせる弾丸が拳銃に入っていないことを願いながら、シリンダーを回転させて自分の頭に向けて引き金を引きます。そうして、自分自身を永遠にキリストから遠ざけようとするのです。今日は救いの日です。次の御言葉をぜひ、今日受け取っていただきたいです。「主の御名を呼び求める者はみな救われる(ローマ人への手紙10章13節)」。

 

「吟味されざる生に、生きる価値なし」と言ったのはソクラテスでした。放蕩息子が人生のどん底にいた時、もう上を見ることしかできませんでした。彼は人生を吟味し始め、どうしてこの状況に陥ってしまったかを振り返りました。内省することは、自分自身を客観的に見つめ、物事を比較して正すことを決めることです。これができることは神の恵みです。しかし、内省は悔い改めではありません。内省と罪の意識は私たちを悔い改めに導くはずです。放蕩息子は人生で行った道徳的な行為を振り返りました。道徳的に堕落していて、価値のない自分の姿に気づくまで、人生の方向を変えることはできないのです。自分の罪に気づいて初めて、イエス・キリストの救いの素晴らしさに気づくのです。英国の牧師ジョン・フラベル(1628〜1691)は次のように述べています。「罪が苦いものとなるまで、キリストは甘いものにはならない」。

 

放蕩息子は家に帰って償いをするために、父親に何と言おうか考え始めたことでしょう。彼は自分には何の権利もなく、故郷と兄から軽蔑に遭うことを知っていました。息子としての地位はもはやなかったので、今や父親のしもべになる準備ができていました。彼は神の名について言及していませんが、代わりに「私は『天』に対して罪を犯し・・・」と言っていることに注目してください。多くのユダヤ人にとって、神の名は最も神聖なものです。私がイスラエルに住んでいたとき、神の名を言う代わりに「ハシェム・アドナイ(ヘブライ語で「主の名」の意)」という言葉をよく耳にしました。放蕩息子は、今や神と永遠なるものを尊重するだけでなく、特に彼をとても愛していた父親のことも尊重していたことが伺えます。

 

悔い改めは、自分の罪を内省するだけでなく、人生の在り方と向きを変えることです。放蕩息子が父の家にたどり着くまで、まだ心に罪の意識があったことでしょう。しかし、彼は父親に話すべき言葉を考え、僕として父親に仕えることを決心したのです。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった(20節)」という言葉は、彼の悔い改めを表しています。言葉で悔い改めるだけでなく、行動によって示すことが必要です。そうするためには、意志が必要になります。

 

問4)もしこのたとえ話を読むのが初めてでしたら、放蕩息子が父の家に帰った時に何が起きると思いますか?また、当時イエスのたとえ話を聞いていた聴衆たちは、この息子が父の家に受け入られると考えたでしょうか?

 

物語のこの時点で聴衆は、放蕩息子が父親や家族、そして彼が住んでいた故郷にもたらした恥の深刻さに驚いていたことでしょう。息子の反逆に対して父親が下す罰は何であろうかと考えていたかもしれません。この種の考えは、放蕩息子のような事例が起きることを防ごうとするパリサイ人の心にあったかもしれません。しかし、予想したような展開にはならず、イエスの次の言葉は聴衆に衝撃を与えました。

 

惜しみなく与えた父親

 

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。(ルカの福音書15章20〜24節)

 

この父親は恥ずべき行動をとった、とパリサイ人は考えたことでしょう。イスラエルでは豚の需要は全くありませんでしたし、イエスは息子が遠い国に行ったと言ったので(13節)、おそらく息子は隣国の異邦人(非ユダヤ人)の中で生活していました。どこにいたとしても、とにかく家からずっと遠い場所にいたと推測できます。この父親の姿は、家から遠く離れてしまった息子を待ち、探している父なる神の姿を表しています。この父親が息子を遠くに見つけた時、息子が犯した罪に対する怒りはなく、ただ哀れみの心を持って息子のもとに駆け寄ったのです。

 

辞書によると、「哀れみ」(英語で “compassion”は他人の苦しみを深く認識し、それを和らげたいという願いと結びついていると記されています。父親は息子を見るやいなや、自分の衣の裾を持って駆け寄ったのでしょう(当時の着物は大きな一枚布でした)。中東では、これは家族の年配の長が決してしないことです。当時の人々は決して足を見せることはなく、緊急時や戦闘時にのみ、男性は機動性のために衣の裾を帯に入れ込みました。聴衆は、これを父親の恥ずべき行動と見なしたことでしょう。父親の行動はあり得ないものだったので、イエスが次に何を話されるのだろうと思い始めたかもしれません。しかし、この父親は息子が家を離れている間、息子のことで心を痛めていたと考えられます。

 

年配の父親は息子を赦す準備ができていたので、息子に話させる機会さえ与えませんでした。父親は息子が言葉を発する前に彼を受け入れます。この物語は、息子を愛してやまない父親の姿を描いています。父親は「彼(息子)の首を抱き、口づけした」と書かれています。原文のギリシャ語の時制によると、父親が息子に何度も口づけをし続けたことがわかります。それは過剰なほどだったようです。また、まだ息子に染み付いている豚舎の悪臭を父親は全く気にしなかったようです。父親は息子との再会を非常に喜んでいました!息子が悔い改めを表明する前に、父親は彼に恵を示したのです。このたとえ話は、神の慈しみと、神がその愛から離れていた人々との和解の準備ができていることを物語っています。最後に、この息子はすすり泣きながら、父親に次のように話したのだと思います。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません(21節)」。しかし、父親はその言葉を遮るかのように、使用人たちに何かを持ってくるように言います。

 

問5)イエスがたとえ話を話された時、なぜ父親が息子のもとに駆け寄る場面を話されたのでしょうか?この場面は神のどのようなご性質を描写しているのでしょうか?3つの物が息子の前に運ばれてきましたが、それらは何でしたか?イエス・キリストを信じる者にとって、それらは何を意味していると思いますか?

 

使用人たちは「一番良い衣」を持ってくるように言いつけられました。この箇所で、ギリシャ語の原文には二重の強調があります。つまり、その衣は本当に一番良い衣であることを強調しているのです。この衣は私たちが普段着ている衣服のようなものではありません。この衣は、名誉ある地位に戻された息子を表しています。また、この衣は私たちの罪を覆う義の衣を表しています。指輪は権威と力の委任を示しています。当時、指輪は公式文書に署名するために使用されました。多くの場合、指輪にはその家の由緒正しい印章が刻印されていました。ヨセフ(旧約聖書に登場するヤコブの息子。兄弟たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られたが、のちにエジプトの大臣となる)は、エジプトの王ファラオの夢を解釈した後、エジプトで2番目に高い地位に昇格したときに、王からそのような指輪を与えられました(創世記41章42節)。

 

私たちもまた、キリストの働きをするために神から権威と力を与えられています(マタイの福音書28章18〜22節)。息子はさらに、履き物を与えられました。奴隷は靴を履くことがないのですが、父親は息子を裸足にはさせませんでした。彼は息子であり、奴隷ではなかったからです。私たちの足は「平和の福音の備え」を履いており(エペソ人への手紙6章15節)、私たちは神の子とされます(第一ヨハネの手紙3章2節)。使用人は、この日のために肥育した子牛を屠るように言われました。この父親は、いつの日か息子の帰還を祝うことを知っていて、ゆっくりと子牛を太らせていたのかもしれません。これらはすべて、家に帰って息子としての地位を再び与えられた奴隷に惜しみなく与えられた恵みの贈り物でした。

 

イエスが息子の帰還について語られたとき、聴衆の中にいた罪人や徴税人を温かな眼差しで見ていたのではないかと思います。その一方で、物語に登場する兄息子について話し始めた時、パリサイ人や律法学者たちと向き合ったのではないでしょうか。

 

兄息子

 

ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」(ルカの福音書15章25〜32節)

 

これらの宗教的指導者たちは、彼らこそ神のために生きる代表者であると考え、誇りに思っていました。イエスが彼らの方を向き、父親が放蕩息子を赦し迎え入れたのを見た兄息子の反応について話された時、パリサイ人や律法学者たちは兄息子に自分自身の姿を見たのではないでしょうか?

 

問6)兄息子の言葉や行動は、彼のどのような性格を明らかにしていると思いますか?

 

最初に読んで分かるのは、兄息子が畑にいるということです。これは、父親から離れていることの比喩です。そして、兄息子が弟の帰還を知らなかったことも示しています。父親は、祝宴が行われていることを兄息子に知らせるために誰も送りませんでした。父親は兄息子が弟を少しも気にかけず、むしろ弟が戻ってきたことに腹を立てることを知っていたのかもしれません。彼が弟を軽蔑していることを知っていた父親と兄息子の間の関係は崩れていたので、父親は故意に兄息子に知らせませんでした

 

父親が弟息子を探しに出かけたときでさえ、兄息子は気にしなかったのかもしれません。もし兄息子が畑から家に帰る途中で先に弟を見つけていたら、彼は弟を追い払っていたことでしょう。もし先に弟に会っていたら、次のように言ったのではないでしょうか。「お前は父さんと家族の恥だ!なんて悪臭だ!父さんはお前に腹を立てているよ。だから、家には帰ってくるな!」これらは全て、私たちが父なる神のもとに帰ることを考え始めたときにサタンがささやく嘘の言葉です。親である人々は、この聖書箇所から子供たちを神のもとに立ち帰らせることに関して多くを学ぶことができると思います。

 

大変な一日の仕事が終わり、兄息子は家に帰りました。彼は音楽が聞こえて、祝宴が行われているのを知って驚きました。すぐに不審に思って、家には入らなかったでしょう。宗教的な人々は、父なる神との正しい関係にあることに真の喜びを持っている人々を警戒します。兄息子は家に入りませんが、代わりに、使用人の一人に何が起こっているのか尋ねます。使用人は言いました、「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです(27節)」。父親が何ヶ月もかけて育てていた特別な子牛は屠られ、祝宴にいる友人や隣人のために切り分けられたのです。

 

物語のこの時点で、パリサイ人はついに物語に何らかの意味を見出したと思います。彼らは、父親が弟を迎えたという兄息子の怒りを聞きました。パリサイ人たちはおそらく、兄息子の父親に対する態度は正当なものだと考えたでしょう。そして、父親が放蕩していた息子を罰せずに迎え入れたことは間違いだったことに気づくだろう、と期待していました。しかし、あるパリサイ人たちは、兄息子の態度から彼自身も父の家から離れていたことに気づき始めたことでしょう。そして、この章の冒頭で彼らが言った言葉を思い出したのではないでしょうか。「『・・・この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている。』(ルカの福音書15章2節)」。そして、物語のすべてが明らかになり始めました。これらのたとえ話は、聴衆たちそれぞれに関するものであり、パリサイ人だけでなく、罪人や徴税人に対する神の驚くべき恵みを説明しているのです。

 

兄息子は大きなプライドを持っていて、自分を強調する一人称をこの箇所で多く使用していました。牧師ウィリアム・バークレーはルカの福音書の解説で、次のように述べています。

 

  • 兄息子の態度は、彼が父親に従順であった期間、愛情深い奉仕をしたのではなく、それは酷く義務的なものであったことを示している。

  •  

  • 兄息子の態度には哀れみの心が全く見られない。兄息子は弟のことを兄弟ではなく、「あなたの息子」と呼んでいる。

  •  

兄息子は、死んだと思っていた弟が見つかり、生きて家に戻ってきたことを祝いませんでした。パリサイ人が「罪人」であるイスラエルの兄弟姉妹にしたように、兄は弟を勘当しました。兄息子は父親のように心配したり、愛を示したりしませんでした。そして、兄息子の心の思いが父親にこぼれました。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません(29節)」。つまり、兄息子は父親が無償で与えるもの相続を得ようと、ここ数年ずっと仕えてきたと言うのです。なぜ仕えたのでしょうか?この態度は、パリサイ人のものと同じでした。規律に基づいた行いをし続けることによっては、神を喜ばせることはできません!次の御言葉にある通りです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません(へブル人への手紙11章6節)」。パリサイ人たちは、善行によって天での地位を獲得していると思っていましたが、神の恵みを完全に受け損ねました。彼らは恵と慈しみは必要ないと考えたのです。「あなたの命令に従わなかったことは一度もなかった!あなたは友人とパーティーをさせてくれたことは一度もなかった!」これが、兄息子の態度でした。

 

この兄息子の姿から何を学ぶことができるでしょう?

 

私たちは父なる神に「仕える」という表現に注意しなければなりません(29節)。私たちの「仕える」という行いは、神に近づくことの喜びに代わるものであってはならないのです。兄息子はその態度によって、父親との間に距離を作ってしまいました。この兄息子の態度が、パリサイ人と律法学者たちの姿を表しています。彼らは、神が律法のどんな小さな戒めさえも細心の注意を払って守る義務を課していると感じて生きていました。失われた者が父の家に戻ることが父親の大きな喜びであるように、罪の奴隷が父なる神のもとに戻ることは、私たちの最大の喜びであるはずです。このことが私たちの周りや私たちから遠く離れた人々に起こるために、最善を尽くす必要があると思います。父なる神のもとに立ち返った人々がいたら、常に喜んで祝おうではありませんか。

 

イエスが32節で突然たとえ話を終えられた時、聴衆は不思議に思ったことでしょう。イエスが彼らに残した大きな疑問は、「兄息子はその後どうしたのだろうか」でした。兄息子は悔い改め、遠く離れていたことを父親に謝ったのでしょうか?彼は宴会に参加し、弟を受け入れたのでしょうか?たとえ話を聞いていたパリサイ人たちは、父親の大きな喜びとは、子どもたちを家に迎え入れ、永遠に一緒に祝うことであることに気づいたかもしれません。イエスはその兄息子の結末をそれぞれに、そして私たちの想像に任せて話を終えました。あなたは、この恵と慈愛に満ちた父なる神のもとに立ち返りますか?

 

次の祈りを祈ってみてはどうでしょうか?

 

天のお父さん、そのような喜びと大きな愛で私たちを迎えてくださってありがとうございます。あなたが私たちを愛されたように、他の人たちを愛することができますように。アーメン(「その通りです」の意)!

 

キース・トーマスより翻案

 

Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

 

ウェブサイト:www.groupbiblestudy.com

 

本文中の聖書箇所は聖書改新訳2017(新日本聖書刊行会)から引用しています。

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