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1. Who is Jesus?

1. イエスとは誰か?

私のキリスト教への一番古い記憶は、私が10歳の時に学校に行く途中に見たものでした。救世軍(キリスト教の一派)の教会の前を通った時、壁に貼ってあったポスターが私の目を引きました。そこには「あなたは本当に生きていますか?」と書かれていました。その文言はとても馬鹿げたように感じられました。この馬鹿げたものを読めるということは、生きているってことじゃないか!このことに関して説明の余地があるとは思いませんでしたし、クリスチャン(キリスト教徒のこと)たちは非常に非論理的な人たちのように思えました。もちろん、私が最終的にクリスチャンになった時、ある人がキリストの元に導かれる時、その人はまったく違う人生を歩み始めるのだとわかりました。キリストにある新しい人生です。これがあのポスターのいわんとした「本当に生きる」ということだったのでしょう。今ではその文言の後ろにある意図を汲み取ることができますが、その時の私にはさっぱりでした。この文言を考えた人はきっとこれを目にする読者層のことが頭になかったのだと思います。なぜなら、私にこのことがわかったのはだいぶ後のことだったからです。

 

私のキリスト教への先入観は、ニューエイジ運動や他の宗教を詮索するよう駆り立てました。やっとキリスト教に私の関心が戻ったのはハル・リンゼイの著書「地球最後の日」を手に取った時からでした。その中で著者はイエスが今も生きているという事実を様々な出来事を通して立証していきました。それはキリストが再び帰ってくる時とその時までのことに関する聖書の預言を紹介することによってなされました。彼はこれらの多くの預言は現代において成就していることを指摘しました。私は衝撃を受けました。皆さんはどう感じるかわかりませんが、私がキリストのために生きると決心するに至るまでに、たくさんの証拠が必要だったのです。キリストに自分の魂をお任せするということは、全てが変わることを意味していると理解していました。響きの良いただの思想のために、そのことをしたくはありませんでした。それ以上のものである必要があったのです。私は真理そのものを探していたのでした。私はこう考えました。もし聖書が言っていることが正しければ、今の私の考え方、世界観、またどのように生きていくのかという日々の決断が吟味される必要があると。この信仰が私の献身に値するかどうか確信を持たなければいけませんでした。

 

私は人生の意味をとても真剣に探し始めました。キリスト教を数学的、また科学的に証明できるとは私は信じません。しかし、法廷で求められるような証拠であれば、おびただしい証拠の量が存在しています。論理的思考を持つ人なら、この証拠を考慮せずにはいれないでしょう(これは私の意見です)。100歩譲ったとしても、合理的な考え方をする人であれば、証拠を天秤にかけ、それが本当であるかどうかを考えるはずです。聖書は驚くべき真実を明らかにしています。この真実を受け入れるなら、人生が変えられ、永遠の運命にも影響があると主張します。というわけで、もし以前にキリスト教を否定していても、再度考慮するに値するものではないでしょうか。この学びでは、人間イエスの歴史的証拠――彼は誰だったか、また誰なのか――を検証していきたいと思います。読者の皆様が柔軟にこれらのトピックを検討していただけたら幸いです。

 

そもそも、イエスが実在の人物であるとどうしてわかるのか?

 

共産主義下のロシアの辞書には、イエスは「実在しなかった想像上の人物」と記載されています。確かに、今日多くの人がイエスのことを思い浮かべる時、想像上の人物だと思うのです。しかし、現代において、そのような主張を維持することのできる歴史家はいません。多数の情報源からなる、イエスが実在していたという多大な量の証拠があります。この証拠は新約聖書(キリスト教の聖典の一部)からだけでなく、非キリスト教的書物からも引用することができます。例えば、ローマの歴史家タキトゥス(直接言及)とスエトニウス(間接的言及)がイエスについて書きました。さらに、西暦37年に生まれたユダヤの歴史家のフラウィウス・ヨセフスが次のようにイエスと彼の弟子たちについて言及しています。

「さて、このころ、イエスという賢い人がいた。彼は素晴らしい良い行いを執り行い、真実を喜んで受け入れた教師であり、人と表すことがはばかられるほどであった。彼は多くのユダヤ人と異邦人(ここではユダヤ人ではない人々のこと)を引き寄せた。彼はキリスト(油注がれたもの、救世主の意)であった。そしてピラトが――我々の指導者たちに勧められ――彼に有罪判決を下し、十字架につけたのだった。彼を最初に愛したものたちは彼を見捨てなかった。なぜなら、神の預言者たちが前もって語っていたことや、イエスに関するおびただしいほどの素晴らしい預言の通り、イエスは3日後にまた彼らに生きて現れたからである。このクリスチャンと呼ばれる集団は今日に至っても根絶されていないのである。」

 

どうして新約聖書が信頼できるとわかるのか?

 

もしかしたら、新約聖書は大昔に書かれすぎていて、正確ではないという人がいるかもしれません。結局のところ、何年もの月日が流れるうちに、原型をとどめていないほどに変わっていないとどうしてわかるのでしょう。その答えは本文批評という学問にあります。つまり、多く文献や写本があればあるほど、またそれらのものが元々書かれた時に近ければ近いほど、原本への信頼が高まるというものです。

新約聖書を他の古代の文書と比べてみましょう。在りし日のF.F.ブルース教授(イギリスのマンチェスター大学にて聖書釈義のライランズ教授として就任していた)はカエサルのガリア戦記には九つか十の写本が現存し、一番古いものでカエサルの死後900年後に書かれているということを指摘しています。リウィウス(紀元前17年)によって書かれたローマ建国史の現存している写本の数は20を超えませんし、一番古いもので西暦900年に書かれています。新約聖書は西暦40から100年の間に書かれました。新約聖書の一番古い完全な写本は西暦350年にまで遡ることができ(たった300年の期間)、3世紀の写本にはほとんどの新約聖書が含まれており、ヨハネの福音書の断片は西暦130年のものさえあります。5000を超えるギリシャ語の写本、1万以上のラテン語の写本、9300もの他の写本に加えて、古代の教父(古代教会の指導者)たちの引用などが3万6千点も実存しています。

 

F.F.ブルースはこの分野の重鎮であったフレデリック・ケニヨン卿を引用してこれらの証拠をまとめています。

 

最初の編成から現存している最古の証拠までの期間が取るに足らないほどの短期間なので、実質的に聖書が当時書かれたままの姿で私たちのもとに伝えられてきたことに疑いの余地はありません。新約聖書の書簡の信頼性と全般的な統合性が確立されたといえるでしょう。

 

よって、一番古い写本からイエスは存在していたということがわかります。しかし、イエスとは一体誰なのでしょう。

 

映画プロデューサーのマーティン・スコセッシは「最後の誘惑」という冒涜的な映画を作ったことがあります。なぜこの映画を作ったのかと問われた時、彼はイエスが本当の人間であったということを見せたかったと言いました。しかし、多くの人々が気になっている点はそこではありません。ごく少数の人だけがイエスが完全に人であったことを疑っています。イエスには実際に肉体があったわけです。時には疲れ、時には腹をすかせました。人間的な感情がありました。彼は怒り、愛し、また悲しみました。人間的な体験もしました。誘惑され、学び、働き、そして両親に従いました。

 

今日多くの人がイエスは偉大な宗教的な指導者ではあったが、ただの人間に過ぎなかったと言います。コメディアンのビリー・コノリーは「私はキリスト教を信じることができません。しかし、イエスは素晴らしい人だったと思います。」と言った時、多くの人を代弁しました。

 

イエスがただの素晴らしい人、もしくは偉大な宗教的教師以上のものだったと裏付ける証拠はあるでしょうか。その答えは、イエスが三位一体の第二格の唯一の神の子であり、そうであったという証拠が多く存在している、ということです。

 

イエスは彼自身についてなんと語っているか?

 

ある人たちは「イエスは自分が神だと主張しなかった。」と言います。確かに、イエスは「私は神だ」という一字一句を使って言いふらしたりはしませんでした。しかし、彼が教えたことと主張したことを見る時、本質的に神である人として自身を意識していたことに疑いの余地はありません。

 

1) イエスの教えの中核は彼自身だった

 

イエスが魅力的であった一つの理由は、多くの彼の教えが彼自身を中核としていたからです。実際彼は人々にこう言いました。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネの福音書14章6節)イエスを通して、彼との関係性からでのみ、神と出会うことができます。私が若かりし頃、自分の人生に欠けている部分があるということを自覚していました。それは満たされたいと願っている内なる空洞でした。もしかしたら、みなさんにも内側が満たされていないという感覚があり、いろいろなものでそれを埋めようとしている自分に気づいているかもしれません。この内なる空洞は20世紀の心理学の重鎮達も認めています。私たち一人ひとりの心には、欠けているパズルのピースのような深い空洞、深い飢え乾きがあることを彼らは認識しているのです。

 

フロイトは「人々は愛に飢えている。」と言いました。

ユングは「人々は安心に飢えている。」と言いました。

アドラーは「人々は意味に飢えている。」と言いました。

 

イエスは「私は命のパンです。」と言いました。あなたの飢え渇きが満たされたいのであれば、私のもとに来なさい。もし暗闇の中を歩いているのなら、イエスはこう言われます。「私が世の光です。」

 

私が10代の頃、職業柄危険を伴うこともあってか、死というものがひどく恐ろしかったです。私はイギリス東海岸で漁業を営んでいました。自分の命について考えさせられる、身の毛もよだつ体験をこの仕事をしている間に幾度となく体験しました。ある時は不発の地雷が網にかかって、それが甲板の上を転がっているところを処理しなければいけませんでした。ある疑問がいつも迫ってきました。死んだら一体どこにいくのだろう。このような考えが頭をよぎることが誰しもあるのではないでしょうか。もし死を恐れているのなら、イエスはこう言いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネの福音書11章25−26節)これが私の言うところの、イエスの教えが彼自身を中核としていたということです。彼は彼自身が人生の欠けた部分の答えだと指摘したのでした。ただ生きるための規律や哲学を与えたのではありません。彼は人々に呼びかけました。「私の元に来なさい!」と。

 

何かに依存してしまっている人たちもいるでしょう。麻薬、食べ物に買い物、アルコールやセックスなどと枚挙に遑がありません。イエスは言いました。「もし子があなた方を自由にするなら、あなた方は本当に自由なのです。」(ヨハネの福音書8章36節)多くの人たちが悩み、不安、恐れ、罪悪感を背負っています。イエスは言いました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)こうも言いました。「私が道であり、真理であり、命なのです。」

彼を受け入れることは神を受け入れることだと言い(マタイの福音書10章40節)、彼を迎えることは神を迎えることだと言い(マルコの福音書9章37節)、彼を見たものは神を見たものだと言いました(ヨハネの福音書14章9節)。

 

2) 間接的な主張

 

イエスは、直接的に自らを神と主張していなくとも、神と同じ位にあるものだと考えていたということがわかる言葉が多くあります。一つまたは二つほどその例を見ていきたいと思います。もしお手元に聖書がありましたら、マルコの福音書2章3−12節を開いてください。

イエスは罪を赦す権威があったと主張しました。

 

2:3そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。 2:4群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。 2:5イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。 2:6ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。 2:7「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」 2:8彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。 2:9中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。 2:10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 2:11「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 2:12すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。(マルコの福音書2章3−12節)

 

この罪を赦すことができるという主張は驚くべき主張です。

 

CS.ルイスは彼の著書「キリスト教の精髄」にて、このように上手く書き表しています。

 

この主張の一部が関心を集めない傾向にあるのは、この話を聞きすぎていてその本当の意味が見えていないからです。この主張とは罪を赦すという主張です。どんな罪をもです。話し手が神でない限り、これは非常識すぎて滑稽なほどです。人が人にされた悪を赦すという概念は理解することができます。あなたが私を踏んだけれど、私は赦す。あなたは私のお金を盗んだけれど、わたしは赦す。しかし、盗まれてもなく、踏まれてもいな人が、あなたを踏んだことや盗んだことに関して赦すと言ったら、それをどう理解したら良いでしょう。彼の態度をとても愚かだと評する他ありません。しかし、これがイエスのしたことなのです。イエスは彼らの罪は赦されたと、その罪によって絶対的に傷つけられた人たちと相談することもなく、言ったのです。あたかもイエスが誰よりも罪によって傷ついたかのように振る舞ったのでした。これは彼が本当に神であり、罪が犯されるたびに彼の掟が破られ、その愛が傷つけられているのであれば、筋が通ります。神でないものがこれを言ったのであれば、それらの言葉はただの愚かなもの、歴史上幾度となく現れた人物たちの自惚れとしか考えられません。

 

イエスは自分がこの世の裁判官であると主張しました。

 

もう一つの驚くべき間接的な主張は、来たるべき日にイエスが世界を裁くということです(マタイの福音書25章31−32節)。彼は再び帰ってこられ、「栄光の位に着きます。」(同31節)全ての国々が彼の前に集められます。そして、イエスは彼らを裁かれます。ある者はこの世界が創造された時から備えられた相続分を受け取りますが、他の者はイエスから永遠に引き離されるという罰を受けます。

 

3) 直接的な主張

 

イエスがメシア、もしくはキリストであるという直接的な主張(ヨハネの福音書20章26−29節)。

 

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。 20:27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 20:28トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 20:29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書20章26―29節)

 

イエスは「ちょっと待って。そう思うのは行きすぎでしょう。」とは言いませんでした。むしろ、その結論に至るまで時間が少しかかったね、「疑わずに信じなさい。」と言ったのでした。

イエスが神の子であるという直接的な主張。

 

14:61しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」 14:62そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」 14:63すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。 14:64あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。(マルコの福音書14章61−64節)

 

もしイエスが自身を神と主張している聖書箇所を一つだけ提示しなければいけないとするなら、ヨハネの福音書10章30−33節になります。

 

10:30わたしと父とは一つです。」 10:31ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。 10:32イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」 10:33ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネ10章30−33節)

 

このような主張は見極める必要があります。様々な人が様々な主張をします。ある人がある特定の者であると主張したという事実はあっても、その主張が正しいとは限りません。そうと思い込んで、自分がナポレオンや教皇、反キリストであるという人たちもいます。

 

ではどのようにして人々の主張を見極めることができるでしょうか。イエスは唯一の神の子であると主張しました。神が人の形をとって現れたと主張しました。三つの論理的可能性があり得ます。もし彼の自身に対する主張が偽りであって、彼自身もそれを自覚していた場合、極悪の詐欺師であるということになります。これが最初の可能性です。もしくは、自覚がなく、その場合はそう思い込んでいたということになります。つまり、狂人だったということです。これが二つ目の可能性です。三番目の可能性は彼の主張が真実であるということです。

 

CS.ルイスはこのように書いています。

 

ただの人がイエスの言ったようなことを言ったとしても、素晴らしい道徳的教師とはならないでしょう。その人は自分のことをゆでたまごだと主張するような狂人か、地獄の悪魔かのどちらかになります。取捨選択しなければなりません。この男が神の子だった、そして神の子であるのか。それとも、狂った人かそれよりも酷いものだったのか・・・しかし、イエスが素晴らしい教師であったなどという恩着せがましい戯言だけは避けましょう。イエスはその選択肢を私たちに残していません。そう意図しなかったのです。

 

イエスが語ったことが正しいと裏付ける証拠があるのか?

 

1) イエスの教え

イエスの教えは人の口から出たものの中で一番優れていると一般的に認識されています。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」「何事でも、自分にしてもらいたことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」「自分の敵を愛し、」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイの福音書5−7章)

 

アメリカの神学教授のバーナード・ラムはイエスの教えについてこのように述べています。

 

それらは他の何よりも読まれ、引用され、愛され、信じられ、翻訳されてきました。なぜならそれらは語られてきた中で最も偉大な言葉だからです・・・その偉大さは人間の心に潜む最大の問題を明確的で決定的かつ威厳をもって取り扱う、純粋で明快な霊性にあります・・・他の誰の言葉もイエスの言葉のように人を惹きつけません。それは人間の根本的な疑問にイエスが答えたように答えることができないからです。それらは私たちが神に期待するような言葉であり、答えなのです。

 

このような教えが詐欺師や狂人から出るでしょうか。

 

2) イエスの働き

ある人たちはキリスト教なんてつまらないと言います。しかし、イエスの近くにあなたがいたとしたら、つまらないわけがありません。イエスが宴会に行った時、大量の水を「シャトー・ラフィット45年もの」(三つのシャトー・ラフィット・ロートシルトのボトルが香港のサザビーのオークションで売られました。落札価格は一本あたり232,692ドル(約1875万円)でした)に変えました。

 

イエスが葬式に行った時はどうだったでしょう。「この岩を動かしてしまいなさい!その人の布切れをほどきなさい!」(ヨハネの福音書11章44節)

 

五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、イエスと共にピクニックに行った時はどうだったでしょうか(ヨハネの福音書6章1−14節)。

 

イエスと病院に行き、36年間病気をしていた男が寝ていた時はどうでしたか。イエスは彼に起きなさいと言われました。彼は完全に癒されました(ヨハネの福音書5章5節)。

 

友のために自分の命を捨てるという、イエスの死はどうでしょうか(ヨハネの福音書15章13節)。

 

3) イエスの人格

 

バーナード・レビンはイエスについてこう書きました。

 

突き動かされる余地のある魂ならどんな魂でも、新約聖書の言葉にあるイエスの性質に貫かれざるを得ない。・・・イエスは今もこの世を見守り、そのメッセージは明確であり、彼の憐れみは永遠に続き、慰めは効力を保ち、その言葉は栄光と知恵と愛に満ちています。

 

イギリスの大法官、ヘイルシャム卿は自伝「私が通った扉」の中で、自身が大学生の時、いかにイエスの人格が迫ってきたかということを綴り、こう描いています。

 

イエスについて知るべき第一のことは、彼と共にいるということは、魅力的だったということです。イエスは人として信じがたいほど魅力的でした・・・彼らが十字架につけたのは、若く、活力に溢れ、命とその喜びに満ち、命そのものの主であり、笑うことをも司り、ただただ楽しいから人々は彼についていくほど魅力的な人でした。20世紀の世界はこの愉快で楽しい男、共にいる者たちを喜びで満たす男のイメージを取り戻さなければなりません。ガリラヤ出身のなよなよした彼ではなく、実在したハーメルンの笛吹き男。彼の周りの子供たちを声高く笑わせ、彼が子供たちを抱き上げると、楽しみと歓喜の音が聞こえてきます。

 

4) 旧約聖書の預言の実現

 

神学的な著者であったアメリカのウィルバー・スミスはこう言いました。

 

古代世界には様々な占いという名の未来を見極める方法がありました。しかしながら、ギリシャとラテン文学の全体を通して見ても、予言者や予言という言葉を使ってはいても、偉大な歴史的出来事が実際に遠い未来に起こったという具体的な予言を見つけることはできません。全人類のために来られる救世主に関する予言もそうです・・・イスラム教はムハンマドの到来を彼の生まれる何百年も前に予言していたと主張することはできません。この国にある、いかなるカルト宗教の教祖も正当に自分たちの到来を古代文書から探し出すことはできません。

 

イエスの場合、彼について書かれてある300以上の預言を成就しました。彼の死んだ日には、1日に29もの預言を成就しました。その多くは、彼にはどうすることもできないものでした。ある人は、意図的に自分で預言を成就したのだと言います。しかし、どのようにして故意にベツレヘムで生まれることができるでしょうか。彼の生誕の地はその何百年も前に書かれていたのです。彼が葬られた場所に関してはどうでしょう。彼が十字架につけられた時、ローマ兵たちが彼の着物のためにくじを引いたという預言に関してはどうでしょう。

 

5) イエスの復活

 

a) イエスのいない墓

 

ある人たちはイエスが死ななかったと言います。十字架上では気を失っただけで、のちに墓で起き上がったと主張します。少し考えて見ましょう。まず、聖書は彼の体から血と水が出た(ヨハネの福音書19章34節)と書かれてあります。これは凝血と漿液が分離したもので、どの裁判所でも医学的な死亡証明として通用します。

 

イエスが十字架上でローマ兵たちを欺き、死んだふりをしたと本当に信じることができますか。ローマ兵が死刑に処されるべき人間を見逃した場合、自分の命を持って償わなければなりません。念のため、キリストの脇腹は槍で刺されたのです。イエスは鞭打たれ、その背中の皮は剥がれていました。十字架を担う力も残っていませんでした。その後で、茨の冠からの傷、それから脇腹の槍から血を滴らせ十字架にかかりました。もちろん、ペテロがその数時間前に焚き火のそばで手を温めていたことから、その日がとても寒い日であったことがわかります。論理的に考えて、イエスが墓の中で寒さを振り捨て、1.5トンの丸石を入り口に沿って動かし、外の兵士と闘ったか、賄賂を渡して逃げた可能性はあるでしょうか。

ペテロとヨハネが墓に走り寄ったことはどうでしょう。彼らの見た何が彼らを信じさせたのでしょうか。

 

20:3そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。 20:4ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 20:5そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。 20:6シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、 20:7イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。 20:8そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。 20:9彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。 (ヨハネの福音書20章3−9節)

 

ある人たちは弟子たちが遺体を盗んだのだと信じています。それについて考えてみましょう。弟子たちが三日後に兵士たちの目をかいくぐって遺体を盗んだと信じることができますか。なぜそんなことをするのでしょうか。ペテロがペンテコステ(ユダヤ教の祭りの一つ)の日に3000人の前で偽りのために説教できるでしょうか(使徒の働き2章14節)。多くの弟子たちが、自分たちが信じたもののために命を落としました。

 

ローマ当局が遺体を取ったのではないのか。イエスが死者の中から蘇ったと弟子たちが語り始めた時に、当局が遺体を見せたら済んだことなので、これも考えにくいです。

 

b) イエスが弟子たちの前に現れたということ

 

弟子たちはみんな幻覚を見ていたのでしょうか。弟子の一人のトマスはイエスが生きて現れた時に、完全なる確信に至りました。復活の後、イエスは十以上の別々の機会を通して弟子たちに現れました。その中には500人に同時に現れたこともあります(ルカの福音書24章36―43節)。イエスは二回弟子たちとともに食事をしました。もし、イエスが霊であったなら、どうして弟子たちと一緒に食べることができたでしょう(ヨハネの福音書21章12−15節、ルカの福音書24章41−44節)。

 

c) 即効性

 

2000年を通して変えられてきた何百万人もの人々の人生。

 

数多くの著名で学術的な作品の著者であるマイケル・グリーンはこう言いました。

 

教会は・・・教育を十分に受けていない少数の漁師と収税人たちから始まり、次の300年間にわたり世界中に旋風を巻き起こしました。これは歴史上類を見ない、平和的革命の完璧で素晴らしい物語です。このことがおこったのはクリスチャンたちが疑問を持つ人たちにこのように答えることができたからでした。「イエスはあなたのために死にませんでした。彼は生きておられます!彼と出会い、私たちが語る現実をご自身で是非体験してください!」彼らはそのようにして教会に加わり、教会は復活の墓から生まれ、そしていたるところに広がったのでした。

 

クリスチャンの体験

 

CS.ルイスはこのようにまとめています。

 

私たちは恐ろしい選択肢の前に立たされています。私たちの論じている男が、彼の語るとおりの男だったのか、それとも狂人かそれよりも酷いものだったのか。私には、彼が狂人でも悪魔でもないというのは明白です。したがって、それがいかに奇妙で恐ろしく、そのように見えなくとも、彼が神であり、あったという見解を受け入れざるを得ないのです。神はこの敵に占領された地に人間の形を取って来られたのです。

 

どうでしょう、納得がいきましたか?もしそうであるなら、このメッセージに応答することをためらわないでください。私たちが語ってきた神はあなたの全てを知っておられ、永遠の愛で愛しておられます(エレミヤ書31章3節)。彼は常識はずれの手段に打って出ました。主イエスは、本来、あなたと私が背負うはずであった、罪深い地上での生活ゆえの罪の負債を払うために神の子として来られました。聖書は主の名によって呼び求めるものは皆救われる(ローマ書10章13節)といっています。もしあなたが真心からあなたを造った神に立ち返り、罪から離れ、主イエス・キリストをあなたの罪が赦されるために受け入れるなら、あなたは救われると聖書は語ります。今この時より応答する良い時は他にはありません。

この祈りを祈ってみてはどうでしょうか。

 

父なる神様、今日私はへりくだって、私の代わりに罪の罰を支払うために、主イエス・キリストを地上に送ってくださったあなたの偉大な愛を自覚し、あなたの前に来ます。イエスはその死に値するようなことは何一つしませんでしたが、私の代わりに十字架についてくださりました。それは私のためでした。罪の生活から立ち返り、あなたのもとに来ます。私の罪を赦し、私の人生にあなたをお招きします。この瞬間からあなたのために生きたいです。キリストにあってあなたがくださる無償の命の贈り物をありがとうございます。その命の贈り物を今日受け取ります。アーメン(その通りですの意)!

 

次の学び「なぜイエスは死なれたのか?」も読まれることをお勧めします。

 

この学びの多くはニッキー・ガンベルのアルファコースを参考にしました。彼の著書「人生の疑問あれこれ」(英題Questions of Life)をお勧めします。

 

さらなる学びのために、ジョシュ・マクドウェル著の「信じる根拠はどこにあるのか」もお勧めします。

キース・トーマスより翻案

 

Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

ウェブサイト:www.groupbiblestudy.com

聖書箇所の引用(本文の赤字)は1965年版の新改訳聖書から

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