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2. Preparing for Eternity
2. 永遠に備える
死に備える
前回の学びでは、人が死ぬ時に何を体験するか学びました。このテーマは多くの人が避けようとするものです。J・カービー・アンダーソンは死に関して的確に次のように話しました。「死はすべての人間の機能の中で最も普遍的かつ民主的だ。年齢、階級、信条や肌の色に関わらず、いつでも人々を襲うのだ」。死の成功率は100%ですが、それでも大多数の人はこのトピックについて話し合ったり考えたりすることを避けます。ウディ・アレンのよく引用される発言に次のようなものがあります。「私は死を恐れてはいない。ただ、それが起きる時、そこにはいたくないのだ」。
私たちが避けようとする限り、死の問題は消えることはありません。全員が例外なくその問題に直面しなければならないのです。いくらお金を持っているか、どんな保険に加入しているかは関係ありません。時間の問題なのです。誰もが、先にどれだけ時間が残されているか知ることはできません。特筆すべきは、逃げられないと分かっていても、その問題を考えないように何か他のことをして、準備もほとんどしない人が多いという現実です。少し前に書かれたボストン・グローブ新聞のある記事には、死去した有名人たちも結局は「大多数」の人々に加えられた、と表現されていました。死は誰にでも確実に起きることであり、一人として例外はいないのです。
ある墓石の碑文には、「立ち止まれ。今のあなたはかつての私と同じだが、いずれ今の私のようにこの世をきっと去るだろう。だから、私のあとについていく備えをせよ!」と書かれていました。しかし、ある通行人がその碑文を見て、次のような走り書きをしました。「あなたの行き先が分からないのに、それはできない!」。その通行人の主張は正しいです。そして、死ぬときにその行き先を知っていることは重要ですが、私たちが正しい方向を指し示されるとき、その先にあるもののために備える必要があります。
妻のサンディと私はイギリスに住んでいた時、休暇に両親をスコットランドに連れて行きました。ある晩、暗くなり始めたとき、私たちは宿泊するホテルを探す必要がありました。黒く塗られた錬鉄製の門を通り過ぎ、その上に「ブラック・バロニー・ホテル」と書かれた看板がありました。入り口から建物が見えなかったので、車で中に入って見に行くことにしました。夜遅いことや、その不気味な黒い門を理由に、私たちは4人で冗談を言い始め、我々は恐怖の塔に向かっており、恐らく幽霊の出る城に泊まることになるだろうと話していました。道は木々の間を曲がりくねっていたので、そのホテルの姿を想像する時間がますます伸びていきました。映画「ヤング・フランケンシュタイン」の「アイゴール」(両目が少し飛び出た変わり者)のような執事がいるのではないかとも想像しました。それに、扉の前で私たちに挨拶するマーティ・フェルドマン(アイゴールの役を演じた有名な役者)の姿も想像しました。
木々の間を通り抜けると、城のような佇まいの建物が姿を表しました。駐車場に車が1台もない巨大な城でした。車から降りると、ひどく背中が曲がっている男が城の扉から近づいてきました。マーティ・フェルドマンのようには見えませんでしたが、彼の目はどこか焦点が合っていませんでした。仕上げには、扉の向こうには大きな文字で書かれた次のような言葉がありました。「あなたの神に会う備えをせよ(アモス書4章12節)」。聖書の御言葉でした。それを目にして安堵しました!扉で私たちを迎えた男性は、その晩の客は私たちだけだと言いました。他の75の部屋は空室でした。なんと、直前に大きなパーティーがキャンセルされていたそうです!サンディと私はその晩、ジェイムズ王がかつて眠っていたとされる寝台で眠りました(英訳聖書の「ジェイムズ王訳」を翻訳するよう命じたあの王様です!)。このベッドはホテルの売りでした。ちなみに、それはひどいベッドで、真ん中の部分がかなりくぼんでいました。当時と同じマットレスではなかったと思いますが、1600年代からそのまま使われてきたかのように感じました!後で、扉の上にあった聖書の一節は、昔戦争があった時、そのホテルで訓練の期間に滞在していた、死に直面するかもしれない兵士のためであることがわかりました。
その来るべき日のために、今あなたの神に会う準備をしておくことは良いことです。その一節が私の心に残りました。「あなたの神に会う備えをせよ」。この学びでは、死と裁きに対する備えと、それが私たち一人一人にどの関わっているかをみていきます。これらのことを考えたくないかもしれませんが、聖書は、神が定められた人生の終わりの時、私たちが自分自身について申し開きをする必要があると教えています。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(ヘブル人への手紙9章27節)
ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。
(ローマ人への手紙14章12節)
聖書を深く学んできた40年間で、聖書は3つの裁きについて説明していると考えました。上記の聖書箇所(ヘブル人への手紙9章27節)で言及された内容は、この世から旅立つ時に起こります。この「さばき」もしくは「審判」とは、人がイエス・キリストによる無償の罪の赦しに対し、どう応答したかに関するものです。キリストを信じる者は、その罪によって裁かれることはありません。その人はイエスの十字架ゆえに非常に安全な立場にあります。キリストが十字架で完成されたわざに信頼する人々は死ぬと、主と共に神の御国へ行くでしょう。そして、彼らは再臨の時にイエスと共にこの地上に戻ってきます。「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです(第一テサロニケ人への手紙4章14節)」。キリストを信じて信頼したとき、その人々の魂の奥深くで何かが起こりました。死とサタンの隷属から自由になり、永遠のいのちが与えられたのです。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネの福音書5章24節)
前回の学びで話したように、クリスチャンが死ぬと、その人は肉体から離れていきますが、本当の意味で「生きて」いてキリストと共にいます。イエスがこの地上に戻ってこられる時に、クリスチャンたちの携挙と復活が起こると、彼らは「新しいからだ」―アダムから受け継いだ罪の性質にもはや支配されない「栄光のからだ」を与えられます。次回の学びでは、聖書に書かれている「復活のからだ」について共に学びます。
2番目の審判はキリストの再臨で起こり、クリスチャンはその時に主からの栄誉を受けます。神の御前で行われるこの審判は、英語で「Bema Seat Judgement (日本語で「ベマ座(ローマ時代の競技場で王が勝者に賞を与えた席)の審判」)と呼ばれています。 3番目の審判は、神の無償の赦しを拒否した人々に関するものです。この審判は、自分自身に仕え、サタンに仕えた者たちが火の池に投げ込まれる「Great White Throne Judgement (日本語で「大いなる白い王座の審判」の意)」と呼ばれます(黙示録20章13〜15節)。今回の学びでは、この2番目の審判に向けて、クリスチャンとして自分自身を備えることに焦点をあてたいと思います。
キリストの審判の座
地上でのキリストに対する反乱を鎮圧し、キリストが再臨される時にキリストは審判の座につき、そこで審判を下します。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。(ヨハネの福音書5章22節)
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。(マタイの福音書16章27節)
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(第二コリント人への手紙 5章9〜10節)
キリストを信じる者たちにとって、このさばきの座はどのようなものですか?あなたはどう考えますか?
この審判は、クリスチャンが時間、エネルギー、賜物、才能やお金をどのように使ってきたかに関するものです。ギリシャ語のbēmatosは英語で「judgement seat(日本語で「審判の座」の意」と訳されています。「審判の座」は新約聖書で使われるギリシャ語で、スポーツコンテストで勝者に賞を与えるための表彰台でした。世俗的な法的文脈では、bēmaというギリシャ語は文字通り「(彼の足を)置く」という意味です。これは、集会の場所にあった少し高くなっている演壇を指します。この演壇は、私たちクリスチャンが次の2点について審判される場所になると私は考えます。(1)人生で御霊の実(ガラテヤ人への手紙5章22〜23節)がどれだけ実ったか、どれだけキリストに似た者であったか。(2)時間、エネルギー、才能やお金などをどのように使ったか。
著者であり講演者であるジョン・ビヴィアは、著書 『Driven by Eternity(日本語で「永遠に駆られる」の意)』で次のように書いています。
「有限数を無限数で割っても、または有限数を無限数と比べてもその答えは「ゼロ」である。つまり、どれだけ長く生きているかは関係ないのだ。たとえあなたが150年生きたとしても、地上での人生は永遠に比べて「ゼロ」だ。つまり、キリストを信じる者として、このゼロの時間枠の中で私たちがここで為す全てのことが、私たちが永遠をどのように過ごすかを決定するのだ。私たちが永遠を過ごす場所は、イエスの十字架と彼の救いの恵みにどう応答するかによって決まるが、私たちがイエスの王国での永遠をどのように生活するかは、この地上でのクリスチャンとしての生き方によって決まることを忘れないでいただきたい。」
今回の学びの少し最後で、キリストに似た者となることによって与えられる栄誉に焦点をあてます。ここでは、私たちが人生で築き上げているもの、つまり時間、エネルギー、賜物、才能やお金をどのように使っているかを共に考えたいと思います。
神の御国への投資
私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント人への手紙3章10〜15節)
10節で、パウロは私たち一人一人が人生において何かを築いていると言っています。彼はそれらを注意して築くように教えています。神の御国におけるすべての働きは、キリストとの親密な関係という基盤の上に築かれています。それ以外のすべてのいわゆる「良い働き」は、ただの木、草や藁にしかすぎず、焼けてしまいます。建築材料の質は行いの動機によって変わります。それに関していくつか重要な点があります。まずは、キリストの御前ですべての動機と行為が明らかにされるということです。
隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。(ルカの福音書8章17節)
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル人への手紙4章13節)
ジョン・ビヴィアは次のようにも書いています。
「多くの人は、救われたことによって、将来の全ての審判は無くなったという誤解をしている。確かに、イエスの血潮は私たちを神の御国から遠ざけていた罪から清めた。しかし、それは地上でのクリスチャンとしての生き方に対する審判を免除するものではない。」
最後の時には、すべてが知られ、すべてのものが神の御前に明らかになります。私たちはこの人生の偉大な奥義を知ります。何も隠されません。多くのクリスチャンたちには人から隠れて行った親切な行いもあるので、「隠されていること」を単に否定的にとるべきではありませんが、神は私たちの心の欲望と動機をご覧になって、公然と私たちに報いるでしょう。全く知名度はないけれど、人知れずジャングルの奥で静かに働いていて、その働きが神の御前に良いものとして受け入れられている人もいるでしょう。皆さんの幾人かは、貧しい人々のために惜しみなく犠牲を払って与え、神のみがご存知でいてくだされば十分だと、その行いを人には秘密にした方もいらっしゃるでしょう、
・・・そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。(マタイの福音書6章18節)
まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」(マタイの福音書10章42節)
主は私たちが主のために行ったことすべてをご存知です。主からの報いを受け損なう者は誰一人としていません。私たちがキリストにあって与えられる相続を得る日が来ることでしょう。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25章34〜40節)
- イエスが「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言ったことは何を意味すると思いますか?最も小さき者たちとは誰のことでしょうか(40節)?
信者たち自身が地上でした親切な行いを忘れていたのに、神は覚えていらしたことは興味深いです。神は彼らのすべての親切な行いを記録していました。神はキリストの審判の席で私たちに公然と報いてくださることでしょう。神の兄弟たちの最も小さな者とは誰のことでしょうか?私はあまり気づかれることがない人々のことだと考えます。おそらく、自分ではどうすることもできない人、病気の人、刑務所に収監されているような人などではないでしょうか。神はこの世の事柄に不器用な人、知られていない人、労働という宗教に束縛されている人に近くあられます。神は私たち一人一人を用いて彼らを自由にし、彼らを訪ね、彼らを養い、パンと水だけでなく、「いのちのパン(イエス・キリスト御自身を指す言葉)」を与えることを望んでいます(ヨハネの福音書6章35節)。
キリストに似た者とされる報酬
永遠に向けての準備は、私たちが地上にいる間だけにすることができます。なぜなら、私たちは死ぬときに、自分の「人格」を携えて永遠へと旅立つからです。天の御国での私たちの「地位」または「ランク」は、地上でどれだけキリストの「仕える者」としての性質を示したかによると考えます。地上であなたの人生に影響を与えたキリストのご性質の大きさが、あなたに対する永遠の報酬と比例します。英語の「character(日本語で、「文字」もしくは「人格」の意)」という言葉は、かつて印刷機が文字を紙に刻印することを説明するために使用されたそうです。神は、周りの人が読んで知ることができるように、キリストのご性質とご人格をあなたの魂の奥深くに刻印しようとされています。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント人への手紙3章18節)
キリストの御前に来るとき、私たちの霊は神から離れているという「死んだ」状態から新しくされ、生かされます(エペソ人への手紙2章1、5節)。しかし、私たちの魂―心、意志、良心や感情―のために取り組むべきことがまだあります。神の御言葉を黙想し、神の御霊に従順であるとき、神は私たちの内なる部分を新しくし、変えたいと願われます。そのことをダビデ王は羊飼いの詩篇でよく歌いました。「主は私のたましいを生き返らせ、(詩篇23篇3節)」。第一ペテロの手紙で筆者は「あなたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです(1章9節)」と書きました。私たちの心、意志、感情は、神の御霊の支配とリーダーシップの下にもたらされるべきです。敬虔な態度は私たちの信仰の目指す所です。キリストのご性質のどれだけが内側に形作られているかによって、私たちはいつか報われることでしょう。
Dictionary.comでは、先ほどの英語の「character」という言葉を次のように定義しています。「人や物の個々の性質を形成する特徴と特性の集合体」。私たちは経験するすべての出来事を通して、魂と霊の領域において日々変化しています。人生のすべては私たちの内面を試すものです。たとえば、理不尽な出来事に対する態度を見て、その人をよく知ることができます。この世の「評価」とは敬虔さに関するものではありません。「評価」とは人が見る外側についてのものですが、「人格」とは神が知っておられる本当のあなたの姿です。人生の様々な状況において、キリストの御霊に対して従順に応答するなら、私たちはますますキリストの似姿へと変えられます。あなたがクリスチャンであるならば、イエス・キリストを表す代表者とされるように神は願われています。
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