日本語での聖書研究をもっと見るには、ここをクリックしてください。

4. How Can I Be Sure of My Faith

4. どのように自分が救われていることを知ることができるのか?

10代から20代前半のほとんどの期間、私は何らかの理由でキリスト教から遠ざかっていましたが、仏教、ヒンドゥー教や哲学を学んだ後、ある本に出会いました。それはキリストの再臨(キリストが再び地上に来ること)についての本でした。その著者は、イエスは救い主であり、いつの日か再び彼が戻って来る時、この時代を終わらせるだろうと書いていました。そして、キリストの再臨の日には、彼に敵対する者たちがたくさんおり、その時に彼らが悔い改めるには遅すぎると語っていました。次の聖書の御言葉にある通りです。

 

地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(ヨハネの黙示録6章15〜17節)

 

この御言葉を読んで、私は非常に恐ろしくなりました。自分の罪について罪悪感を感じ始めた時期だったからです。当時の私は罪を楽しみ、マリファナをやめたくありませんでした。しかし、この御言葉を読んで、私自身が神に敵対する側にいると気付かされたのです。キリストに従うなら、麻薬をやめなければならないと知っていました。その時、神は私にすべてを委ねるように求められました。しかしながら、その御言葉のことを考えつつも、その日結局はマリファナを吸ってしまいました。その晩、私はキリストが天使たちと一緒に空中に来られる夢と幻を見ました。幻の中で、私はキリストから隠れるための洞窟を見つけようとしていました。自分が神の前に正しい者であると確信がなく、キリストが来ることを非常に恐れていました。御言葉が語る「知恵の初め」(箴言9章10節)のような、神への恐れが私の魂にやって来たのです。

 

キリストに人生を捧げた後、自分の善良さのゆえではなく、主によって私の魂に与えられた悟りの故に、受け入れられ、愛されていることを知りました。死後のことや、キリストの再臨のことを知り、救われているという確信をこれまで失うことはありませんでした。これは傲慢に聞こえるかもしれませんが、私にもたらされた神との平安なる関係と憐れみは私の努力によるのではなく、神の働きによります。私ができることは神のうちに休むことだけです。私が救われて天国へ行くのは、行いのゆえではなく、神の恵みによるものです(エペソ人への手紙2章8〜9節)。この地上での人生で終わりなのではありません。死の先には命があります。歴史は無意味でも周期的なものでもありません。それは輝かしいクライマックスへと向かっているのです。

 

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(第一ヨハネの手紙5章12〜13節)

 

これこそ(下線部を参照)この御言葉を読むすべての人に私が願うことです。あなたが神のものであり、神があなたのものであることを知り、健全に、愛と敬意を持って、神を畏れることができるという保証です。来るべき裁きの日に神があなたを拒絶することへの恐れではなく、あなたを選ばれた神への健全な畏れと敬意なのです。あなたは神によって救われている側か、敵対する側か、また死んだ後向かう場所を直感的に知ることができます。神は救いを確信してほしいと願っておられます。今日のトピックは、どのように信仰を確信することができるかについてです。

 

導入

 

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント人への手紙5章17節)

 

キリストに人生を委ねた時、各々が神との異なる体験を通ります。生ける神との出会いに関して、例えば以下のような体験談があります。

 

「以前は失望しかありませんでしたが、今は希望があります。以前は人に対して冷淡でしたが、今は人を赦すことができます・・・神が私のうちに生きておられるからです。神が私を導いておられ、以前のような酷い孤独感が消えたのを感じています。神が非常に深かった空虚感を満たしてくださったのです。」

 

「通りにいる全ての人と抱擁を交わしたい思いでいっぱいです・・・今日はバス停で祈りをやめられず、乗るはずだったバスを逃してしまったほどです。」

 

1) 実に多種多様な体験があります。私はキリストに人生を捧げた後、内側の深いところで何かが起きたことに気づきました。そして、私の上にあった重圧感が消え去ったことによって、神の愛を知る力強い体験をしました。心がとても軽くなり、自由と平安を感じたのです。キリストを信じれば、おそらく皆さんもすぐに何かしらの変化を感じることでしょう。クリスチャンとして育った人々は、もしかすると、神から離れていると感じたことはないかもしれません。一方、他の人たちにとって神との出会いは段階的で、時間をかけて起きます。イギリスの友人にトニーという男性がいます。キリストに出会う以前、彼はアルコール中毒でした。ある時、彼はパリで酒を飲み、パリから2〜3マイルほど離れた郊外へ向かう電車に乗りました。問題は彼が居眠りをしてしまったことで、数時間後に目覚めると彼はオランダのアムステルダムにいました。彼はそうとは知らずにベルギーとオランダの国境を越えていたのです。同じように、ある人たちもキリストを受け入れた時、知らずのうちに闇の王国からキリストの王国へ移されています。ある時、ふとキリストの王国にいることに気づくのです。

 

また、体験が最重要ではなく、次の事実が大切です:

 

2)キリストを受け入れた時、私たちは神の子どもになります。それが新しい関係の始まりです。良い両親は子どもたちが愛の中で健やかに成長することを願います。しかし、神の子どもとされた人たちは、彼らが本当に救われていて、神に受け入れられているのか確信がありません。使徒ヨハネは次のように私たちを励ましています。

 

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネの福音書1章12節)

 

私が教えた「初めてキリスト教を知る」講座の最後にはいつも、受講者たちにアンケートに答えてもらいます。質問の一つは、「この講義の始め、自分がクリスチャンであり、救われていると確信していましたか?」です。以下が解答例です。

 

・「はい、でも何か特別な体験があったわけではありません」

・「多分」

・「そうだと思います」

・「いいえ」

・「おそらく」

・「少しは」

・「確信していましたが、振り返れば、そうでもありませんでした」

・「中途半端なクリスチャンでした」

 

少しだけ話が逸れますが、お付き合いください。1980年に妻のサンディと結婚したとき、結婚指輪を購入するのに有していた約300ドルが全所持金でした。その上、新婚旅行でシカゴの美術館を訪れている間、車に積んでいた持ち物を全て盗まれてしまったのです。さらに悪いことに、私はアメリカの移民局に永住者カードの申請書を提出するまで働くことができませんでした。結婚してから最初の数週間はひどい時間を過ごしましたが、神に仕えたいという私たちの共通の思いに支えられました。それでは、もしある友人が新婚旅行の直後、私の妻に次のような質問をしたとしましょう。「あなたは結婚していると確信していますか?」彼女が「はい、でもキースと本当の意味での関係性を築けた実感はありません」と答えたとしたらどうでしょう。あるいは、先ほど挙げたアンケート結果のような曖昧な回答や、ましては「いいえ、中途半端な結婚でした」なんて答えたらどうでしょう。結婚していると言っておきながら、私と妻の間に関係性が見られないとは思いませんか?同じように、生ける神はあなたと結婚の時に交わされるような契約関係を結んでいます。そしてクリスチャンの結婚とは、神が私たちと築いてくださった親密な関係の投影の一部なのです(エペソ人への手紙5章31〜32)。

 

3)神は私たちに確信してほしいのです。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」(第一ヨハネの手紙5章13節)

 

問題:信仰が本物である証拠は何でしょうか?

 

3本の脚を持つ三脚がカメラを支えるように、私たちの神との関係は三位一体(父なる神とイエスと聖霊が一致して、唯一の神であるという概念)のそれぞれの働きによってしっかりと保証されています。

 

1)天の父が私たちに御言葉を与えてくださる約束

2)神の御子イエスの十字架上での犠牲

3)私たちのうちにおられる聖霊の保証

 

これらは次の三つにまとめることができます。神の御言葉、イエスの働き、聖霊の証です。

 

神の御言葉

 

もし自分の感覚だけに頼るなら、何に関しても確信を持つことはできないでしょう。私たちの感情は天候や、朝何を食べたかによってでも変動してしまうものです。変わりやすく、惑わされやすいものです。一方で、神のことばである聖書の約束は決して変わらず、完全に信頼することができます。それでは、聖書の言葉にある3つの約束を見ていきましょう。

 

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)

 

この御言葉では、イエスが戸の外に立って中に入れてくるように戸を叩いています。彼の声を聞いて戸を開く者は誰でも、イエスがその人のところに入って、一緒に食事をするようなとても親しい関係を持ってくださるという約束です。

 

この御言葉に触発された芸術家ウィリアム・ホルマン・ハント(1827〜1910)は「世の光」という作品を描きました。彼は「世の光」を計3枚描きました。1枚目はオックスフォードのキーブルカレッジに飾られています。別の絵はマンチェスター・アートギャラリーに展示されています。ハントのワールドツアーが1905年から1907年の2年間行われ、3枚目の絵は世界中の各国で展示されました。そして、作品は帰国後の1908年にセント・ポール大聖堂に寄贈され、現在もその大聖堂に飾られています。実は1枚目の作品が公開されたとき、一般からの評価はあまり良いものではありませんでした。しかし、1854年5月5日、芸術家で批評家のジョン・ラスキンが新聞社タイムズ誌に手紙を書き、その作品の象徴性を詳細に説明し、「これまでに生み出されたものの中でも非常に高貴で神聖な芸術作品の一つ」と評して、見事に作品を弁護したのです。この作品に描かれている世の光なるイエスは、ツタと雑草が生い茂った戸の外に立っています。その戸は誰かの人生の戸を表していて、その人はイエスを自分の人生にお迎えしたことは一度もありません。イエスは戸の外に立って叩いており、返事を待っています。イエスは入って、その人の人生に関わりたいと望んでいるのです。ある人が「世の光」の作品を見て、ハントに、「戸にドアノブを描くのを忘れていますね」と指摘しましたが、「ああ、いや、それは意図的なものです。ドアノブは片方にだけあって、それは内側だけにあるのです」と彼は答えました。

 

つまり、イエスを私たちの人生にお迎えするためには私たち自身が戸を開く必要があるのです。イエスは決して強制しません。私たちを尊重し、選択する自由を与えてくださっています。戸を開けて彼を迎え入れるかどうかは私たちにかかっているのです。もし戸を開くなら、次のように約束されています。「わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。ともに食事をすることは、戸を開いてイエスを人生に迎える人々に与えられるイエスからの友情のしるしです。一度イエスを人生にお迎えしたその瞬間から、彼は私たちとずっとともにいてくれます。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書 28章20節)

 

私たちの多くが、神がいつもともにおられることを忘れやすく、時には神を悲しませてしまったと感じることがあります。しかし、これは同じ部屋で他の人々と働くことに似ています。あなたは彼らが同じ部屋にいることを知っていますが、彼らといつも話をしているわけではありません。イエスは言われました。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル人への手紙13章5節)。

 

神のことばに関する三つ目の約束はヨハネの福音書10章に書かれています。

 

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」(ヨハネの福音書10章28〜30節)

 

この御言葉は私たちにはっきりと、神が与えてくださった永遠の命を奪われることはないと述べています。あなたが自ら神から離れることはできるでしょう。しかし、もし神に人生を捧げたのなら、あなたは神の子どもなのです。もし自ら罪の生活に戻ってしまうなら、神はあなたが立ち返り、罪から離れることができるように訓練することでしょう。もし心からキリストに人生を捧げるなら、神は愛と恵によって完全にあなたを守ってくださいます。

 

イエスが死から復活されたことには多くの意味があります。まず、それは私たちの過去を保証します。イエスが十字架で成し遂げられたことには大きな力があります。「イエスの復活は敗北からの逆転ではなく、勝利の宣言です。」とある人は言います。次に、それは私たちの現在を保証します。イエスは生きています。彼の力は私たちと共にあり、完全な命をもたらします。最後に、それは私たちに将来があることを確認させます。この人生で終わりなのではありません。墓の向こうには命があります。歴史は無意味でも周期的でもありません。輝かしいクライマックスに向かっているのです。

 

いつの日か、イエスが新しい天と地をつくるために地上に戻って来られます(ヨハネの黙示録21章1節)。その時、キリストにある者たちは「いつまでも主とともにいることになります」(第一テサロニケ人への手紙4章17節)。そこには、もはや涙や痛みはないのです。もはや罪もないので、誘惑もありません。苦難もなく、愛する者たちと別れる悲しみもありません。そして、私たちはイエスと顔と顔を会わせて対面します(第一コリント人への手紙13章12節)。私たちは栄光に輝いた新しい体が与えられます(第一コリント人への手紙15章)。キリストに似た者へと変えられます(第一ヨハネの手紙3章2節)。御国は永遠に続く素晴らしい喜びが満ちている場所です。ある人々は、そのような場所は退屈なだけだと言います。しかし、聖書は次のように語っています。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」(第一コリント人への手紙2章9節;イザヤ書64章4節の引用)。

 

CS・ルイスは彼の著書「ナルニア国物語」の最終巻で、その来るべき御国の姿を描いています。

 

「学校は終わった。休みがはじまったのだ。夢はさめた。こちらは、もう朝だ。・・・この世ですごした一生も・・・本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき、あの人たちは、地上の何人も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところでした。その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです。」

 

イエスの働き

 

永遠の命は無償ですが、安いものではありません。私たちが永遠の命を受けるために、イエスがご自分を犠牲にしたからです。もしこの永遠の命という贈り物を受け取りたいなら、自ら罪を悔い改めなければなりません。罪は私たちを傷つけ、本当の「死」へと導くからです(ローマ人への手紙6章23節)。罪に背を向け、心を変えることを聖書では「悔い改め」と言います。私たちは悔い改め、信仰を持つことによって、永遠の命をいただくことができます。

 

信仰とは何でしょうか?ダンフリースシャー出身のスコットランド人であるジョン・パテン(1824〜1907)は、未伝地(キリスト教が伝えられたことのない土地)のある部族にイエスの福音(聖書の教え)を伝えるためにニューヘブリディーズ(南西太平洋の島々)を訪れました。しかし、島民は人食い人種であり、彼の命は絶えず危険にさらされていました。パテンはヨハネの福音書の翻訳に取り組むことを決心しましたが、その部族の言語に「信念」または「信頼」を表す言葉は見つかりませんでした。その部族ではお互いに誰も信頼していなかったからです。

 

しかし、パテンは探している言葉を見つける方法を思いつきました。使用人が部屋に入ってきたとき、パテンは両足を床から持ち上げ、椅子に腰を下ろし、「私は今何をしているのか」と使用人に尋ねました。すると使用人は「あなたの全体重を椅子に委ねている」という意味の言葉を使いました。そして、この表現をパテンは採用したのです。信仰はあなたの全てをイエスと、彼が十字架上で成し遂げたことに委ねるということです。イエスは私たちのすべての罪を負われました。この犠牲的な死は、預言者イザヤによって書かれた旧約聖書の書簡で預言(注:未来を予測する予言ではなく、神からのメッセージの意)されていました。救世主イエスが誕生する何百年も前に書かれた書簡で、預言者は「苦しんでいる僕」が私たち人類のために死なれることを預言して次のように述べました。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」(イザヤ書53章6節)。

 

預言者は私たち全員が罪を犯したと語っています。私たちは皆、道に迷っており、羊のようにさまよっています。預言者イザヤは他の箇所で、罪は私たちと神との間の仕切りになると語っています(イザヤ書59章2節)。罪は神が遠く離れているように感じる原因の一つです。私たちと神との間には、神の愛を体験することを妨げる障壁があります。

 

一方、イエスは何も罪を犯しませんでした。彼は完璧な人生を送ったのです。彼と天の父なる神の間に障壁はありませんでした。十字架上で、神は私たちの悪行(私たちの不義)をイエスに負わせました(「主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」)。ですから、イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました(マルコの福音書15章34節)。その瞬間、キリストは世の罪を負われました。彼は私たちの罪を取り除いてくださった、私たちの身代わりになった神の子羊なのです。

 

キリストの身代わりの死によって神と私たちの間の障壁が取り除かれました。それは、イエスが人類のために十字架で身代わりとなって死なれたことを信じるすべての人のためです。これによって、私たちは神の赦しを確信することができます。イエスが十字架上で成し遂げてくださったことを信じ、信頼するとき、私たちの罪悪感は取り除かれます。決して非難されることはないと確信することができます。パウロが述べているように、「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ人への手紙第8章1節)。聖書はこれらのことを私たちに告げているので、私たちは永遠の命を持っていると確信することができます。

 

私たちのもつ関係性

 

信仰を持つとき、私たちの内側の変化だけでなく、神と人々との関係にも変化があるはずです。私たちは父・子・聖霊なる神への新しい愛を育みます。たとえば、「イエス」という言葉を聞くと、感情的に影響を受けるようになります。私はクリスチャンになる前、ラジオを聴き、テレビを見たりしている時に、出演者がキリストについて話し始めると電源を消していました。しかし、キリストを信じた後はキリストに対する態度が変わったので、そのような場合には音量を上げて耳を傾けるようになりました。私のキリスト教への関心は、私の心が変わり、新しくなったという事実を知らせてくれました。

 

人に対する態度も変わります。クリスチャンになったばかりの人たちは、通りやバスの中で人々の表情によく気づくようになったと言います。キリストに出会う前、彼らは周りの人に関心がありませんでした。しかし今では、周りに見かける悲しそうな表情をした人や、さまよっているような人を見かけると気に掛けるようになりました。私のクリスチャン生活初期における以前との違いの一つは、他のクリスチャンに対する私の態度でした。私は長い期間にわたって真理を探し、アメリカでキリストに出会ってクリスチャンになりました。10代の頃、マリファナに夢中になりましたが、心に落ち着きがなく、将来に不安を抱いていました。福音を聞いてキリストに人生を捧げたとき、聖書を信じる教会に行く必要があると言われました。人口1万6千人ほどの小さな故郷にそのような教会があるのだろうか?と考えました。私が16歳の頃、聖書を照らす灯りがある箱に落書きをして、故郷の教会にいたずらしたことがありました。それは、私が5歳のときに母親を亡くしてから、その死を神のせいにし、教会にも否定的な思いを持っていたからです。しかし、神はいたずらをした同じ教会に私を導かれました。そこには「かっこいい」ヒッピーの友人はいませんでしたが、教会の人たちと知り合ったとき、彼らは私に心を開いてくれる好感の持てる人たちであることが分かりました。彼らは私のような長い髪(ヒッピーの特徴的なヘアスタイル)はありませんでしたが、同じ霊が彼らの中にあり、一緒にイエスについて話すのがとても楽しかったのです。確かに、私はすぐに他のクリスチャンとの深い友情を経験し始めたのです。これは想像もしていなかったことでした。

 

二つ目に、私たちの生活に見られる変化のように、聖霊が私たちの内面に働いてくださいます。私たちが神の子どもであることを証ししてくださるのです。

 

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ人への手紙8章15~16節)

 

物事を直感的に知るこの経験は、人によって異なります。この内なる証人である御霊にほとんど気づいていない人もいれば、聖霊の働きに鋭く気づく人もいます。人が神に自身を委ねる時、この御霊の証は力強く働きます。このことに気づかない人にとって、それは彼らが聖霊を所有していないのではなく、聖霊が彼らを所有していないのです!神の御言葉の約束によって満たされるほど、聖霊との愛なる関係は強くなります。キリストの御手に身をゆだねるほど、御霊の証人は大きな働きをすることができます。

 

クリスチャンになってアメリカから帰国したとき、私は漁業に戻り、父のボートで父と一緒に働きました。私の心には神の愛が溢れていました。神の愛がとても力強く働いていたので、御霊が私に、父親への愛を伝えるように言っていると感じました。さて、読者の皆さんは英国の精神、特に私の家族を理解する必要があります。私は「愛している」という言葉を家族の中で聞いたことがありませんでした。おそらく何世代にもわたって愛の言葉を伝える習慣がなく、そうできない何かがあったのです。しかし、御霊に促がされた私はおずおずと彼に言いました。「お父さん、本当に愛しているよ」。

 

その出来事の後、自分自身に勝利したような感覚を得ました。父親に私の気持ちを心から話すことができたのです。父親から返事はありませんでしたが、不思議なことに彼が私を愛していることを感じました。私たちに対する神の愛は決して変わりません。何をする時にも、神の愛のうちに安らぐことができます。皆さんにも同じ祝福が与えられています。そして、この気づきは神の御霊によるものです。あなたは神のものであり、神はあなたのものです。その約束のうちに休むことができるのです。

 

カール・タトルは崩壊した家庭で育ったアメリカの牧師です。父親によって虐待された悲惨な子供時代を過ごしました。クリスチャンになったある日、神の声を聞きたかったので、邪魔されずに一日中祈れる場所に出かけることにしました。彼はその場所に到着してから祈り始めました。しかし、15分ほど経ってから、どこにも彼の居場所がないように感じました。そこで家に戻り、とても落ち込んで、失望を感じました。彼は妻に、生後2か月の息子ザカリーを見に2階へ行くと伝えました。彼は部屋に入って息子のもとに歩み寄りました。息子を抱きしめると、彼は息子への信じられないほどの愛が内側から湧きあがるのを感じて、泣き始め、息子に語りかけました。「ザカリー、愛しているよ。心から君を愛している。何が起こっても、君を決して傷つけない。ずっと君の味方だ。ずっと君の父親だ。いつも君の友人でいよう、見守ろう、必要なものを与えよう。そして君がどんな罪を犯しても、何をしても、君が神様から離れてしまっても、君を愛そう。」そして突然、カールは自分が神の御腕に抱かれているのを感じ、次のような神の語りかけを耳にしました。「カール、あなたは私の息子です。あなたを愛しています。あなたが何をしても、どこへ行っても、いつもあなたを見守っています。いつもあなたに与え、あなたを導きます。」

 

このようにして、カールが神の子であることを御霊ご自身が証ししました(ローマ人への手紙8章16節)。神との正しい関係に関する内なる知識は、私たちが神との関係を確信し、私たちが赦され、永遠の命を持っていることを確信する3番目の方法です。私たちがそれを知っているのは、私たちの人格と関係性における継続的な変化を通して「客観的」に、そして私たちが神の子どもであるという深い内なる確信を通して「主観的」に、神の御霊が私たちに証ししているからです。

 

この学びの多くはニッキー・ガンベルのアルファコースを参考にしました。彼の著書「人生の疑問あれこれ」(英題Questions of Life)をお勧めします。さらなる学びのために、ジョシュ・マクドウェル著の「信じる根拠はどこにあるのか」もお勧めします。

 

キース・トーマスより翻案

Eメールアドレス:keiththomas@groupbiblestudy.com

ウェブサイト:www.groupbiblestudy.com